住宅街の中にひっそりと佇む神社です。
稲荷神社(上鈴木稲荷) / / / .
上鈴木(稲荷)神社は、享保8年(1723)新田開発の際に親村である貫井村から、稲荷神社を勧請し、鎮守として遷祀し、明治6年村社に列格、明治41年鈴木稲荷神社へ合祀されたものの、上鈴木の鎮守として昭和27年に還座したとのことです。
地域の鎮守様。
至るところが傷んでいるのですが、趣はあります。
御朱印はありませんと張り紙がありました。
住宅街の中にひっそりと佇む神社です。
社務所はあるが神職の常駐無し、御朱印の有無は不明。
駐車場は無いが、境内に停められるスペースはあり。
桜と南天が共存している木がある。
縁起いいね。
名前 |
稲荷神社(上鈴木稲荷) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
042-344-0638 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
倉稲魂命は稲荷神ですが、穀物神としての働きは倉庫の意味もあるようです。
昔は屯倉(ミヤケ)という言葉もあり、倉の神の意味合いもあったようです。
ご由緒には、この玉川上水南沿いは、かつて鈴木新田に属し、 上鈴木 (現上水本町) と呼ばれており、18世紀に新田開発の際に親村である貫井村(現小金井市貫井町) から稲荷神社を勧請し、 鎮守として遷祀したとありますが、他にも稲荷がいくつか合祀されており、明治時代には下鈴木 (現鈴木町) の稲荷神社に合祀されています。
そして昭和24年1月、地元住民の強い要望により、旧陸軍経理学校に祀られていた若松神社の社殿の払い下げを受け、再び上鈴木の鎮守の社として遷座されました。
しかし、境内摂社に須賀神社が祀られており、須賀神社と言えば「君の名は」の舞台にもなった四谷の須賀神社と関連しています。
須賀神社の原型は、速須佐之男命(スサノオ)が妻の宮を造るための土地を出雲の国に求め、須賀の地にたどり着き、「この地にやって来て、私の心はすがすがしい」と言って、その地に宮を造って住んだのがルーツです。
また、須賀宮といえば熊野を指すのです。
その熊野に祀られるスサノオの妻が、櫛名田比売(クシイナダヒメ)つまり稲荷の神なのです。
そして、熊野といえば和歌山ですが、木姓にルーツがあります。
木島、木藤などの木です。
そして熊野は鈴木姓がドンピシャのルーツなのです。
それでこのあたりは鈴木姓が多いという事が考えられます。
そして神社の原型は実は意外にもお寺にあり、日本最初の寺は飛鳥寺と言われています。
飛鳥寺を創ったのは蘇我氏ですが、蘇我氏は須賀氏とも言われています。
ですから、皇室のルーツとリンクするという事も言えるのです。
今でも皇室で祀られる神に園神・韓神がありますが、これも園が蘇我氏の蘇の神だということが考えられます。
また、韓の神とはスサノオの渡来を意味しているとも言われており、スサノオにまつわる神社は熊野神社の他に氷川神社や神田神社、八雲神社など様々です。
そしてそれらに共通する神紋は「三つ巴」なのです。
恐らく、この神社でもそうした三つ巴がどこかにあるのではないかと思いますが、見つけられませんでした…ちなみに内藤姓も関係があり、近くにある内藤新田なども鈴木氏に近い親縁があるのではないかと思います。
鈴木氏も遡ると藤白鈴木になりますので、皇室に近い藤姓であることが考えられます。
今のような村の歴史は比較的新しく、江戸時代にはこのあたりは鬱蒼と木が生い茂る自然の景観が広がっていたと思われますが、国分寺に人が住んでいる歴史は相当古く、3万年前の遺跡も普通に存在するので、権力者たちにとっても重要な土地だったのではないでしょうか。
歴史的には縄文時代から弥生時代、やがて古墳時代へと続きますが、こうした場所に倉を建てて穀物神を祀るという宗教が、古墳時代に蘇我の人達によってもたらされたという事が考えられます。
また、興味深いのは陸軍の若松神社が祀られていることです。
この稲荷社と合祀されているということですが、どうやら新宿区の若松河田と関係しているようです。