ここに長崎の浦上から流されてきたキリシタンたちが幽...
長崎キリスト教殉教者碑 / / .
卯辰トンネルを掘っていたら切支丹人骨を発見。
明治2年(1869年)長崎500人余のキリシタンが金沢藩に送還された。
そのうち百人余が命を落とし、そのことを伝えるためにカトリック教会が碑を設けた。
(以下、長文ご容赦。
関西にある、英国の有名ゴルフ場をパクったかのような英語名を持つ、キリスト教系の大学で中途半端な知識を学んだせいで似非人道主義者となった、消防士のコスプレ好きと思われる方の口コミを事前に読んだ方が、本口コミの意味を理解できると思います)明治政府は、明治維新後も江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いでいた。
そういう中、浦上四番崩れと言われる大規模なキリシタンへの弾圧が長崎で行われていた。
キリシタンの村民たち約3700人が、当時の明治政府の支配領域である富山以西の10万石以上の藩に流罪とされ長崎から移送され、金沢へはそのうちの516人が送られてきた。
元々金沢の前田家は、キリシタン大名として知られる高山右近を預かった過去がある。
外国人宣教師がイエズス会本部に送った記録では、加賀藩では2代目藩主、前田利長の保護の下、キリシタン宗門は拡大していき、1603年には司祭館を建設。
その頃、北国のキリシタンの総数は1
映画 沈黙により隠れ切支丹への差別虐殺が外国から注目を受けてます(´⊙ω⊙`)街全体が観光誘致を狙い、ハリボテの作り物のような金沢には隠したい場所故に分かり難い場所です明治維新後、500を超えるキリシタンが連れてこられ卯辰山に幽閉女子供など多くが亡くなりましたこの場所が外国に発覚し、外交上、不利になり解放された意味深い場所残念なのは日本人自らでなく、外国からの指摘日本人の差別の根深さは保守的なこの街が如実に引き継いでいますだから大嫌いなんですよねこの街。
考えさせられます。
我々はもっと歴史について学ばねばなと思う。
名前 |
長崎キリスト教殉教者碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
076-220-2194 |
住所 |
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評価 |
3.8 |
この場所は、ここに長崎の浦上から流されてきたキリシタンたちが幽閉されたという場所ではありません。
カトリック金沢教会が、彼ら520名を超えるキリシタンたちの苦難を偲び、記念碑を建立する時に、金沢市への許可をもらおうとしたとき、市は市有地に宗教的なものを点てることに難色を示したことで、結果的にこの場所に記念碑を点てることとなりました。
この卯辰山には合計で3か所のキリシタンたちが幽閉された場所があり、この記念碑の下にある道路を少し上ったところに、かつては「湯座屋」と呼ばれる湯治場、温泉があったのですが、その場所に幽閉されていることが知られています。