奥の細道途中でしばらく滞在したことがわかる趣のある...
黒谷橋を渡ったら芭蕉堂がありました。
苔むした緑の中にあります。
空気がきれいです。
こういう建物で一泊してみたい。
とても、情緒ある素敵な場所で静けさの中での読書などには、ぴったりの所です!
俳句を投稿できるのいとおかし。
はじめて来ましたがもう別世界ですね。
過去の時代に来た感じで、何故か懐かしい気持ちになる空間でした。
鶴仙渓遊歩道を散策していると、黒谷橋のたもとにあります。
木々の緑に囲まれた空間に、芭蕉を祀った御堂が大聖寺川の渓流に面し建っていました。
芭蕉が北国行脚の折りに立ち寄り、名湯ぶりを讃えたことに由来しているそうです。
堂内には芭蕉の小像が安置されています。
速歩きの芭蕉が、奥の細道途中でしばらく滞在したことがわかる趣のある景観です。
山中温泉の景勝地〔鶴仙渓〕の遊歩道の北の端(黒谷橋のそば)に〔芭蕉堂〕が建っている。
明治43年(1910)に金沢の俳人・渡辺萎文が全国の俳人に呼びかけて建てた堂。
中には芭蕉の木像が納められている。
堂の横には〔芭蕉堂〕建立の経緯を表した〔芭蕉堂碑〕が建っている。
周辺に句碑が建っているので紹介する。
・萎文句碑 ほとゝきす川音高うなりにけり 萎文 芭蕉堂の建立者・桃妖句碑 紙鳶きれて白根ヶ嶽を行方かな 桃妖 芭蕉が宿泊した和泉屋の主人。
俳号に芭蕉から〔桃〕の字をもらった。
当時14歳。
・酔月句碑 人聲ハ橋のほとりや夏の月 酔月 昭和29年(1954)芭蕉堂の移築の記念に建立。
酔月:山中温泉の俳人、大辻恒雄。
大聖寺川のほとり。
よい気が身体の中に入り込んで来そうです。
奥の細道 第38の段 「山中温泉」芭蕉の遺徳を讃(たた)えて草創された芭蕉堂。
鶴仙渓を見下ろす絶景に建てられている。
草創当時、地元の方の敬意が伝わってくる御堂である。
芭蕉はこの風景を「行脚のたのしみここにあり」(弟子句空”草庵集”より)とまで褒め称(たた)えている。
(残念ながら、”草庵集”で特筆した”くろ谷橋”は現在は架け替えらたものであり、芭蕉が見たものは観られないが)芭蕉は、奥の細道の旅でこの”名湯”山中温泉に8日間滞在し、有馬温泉に次ぐ効能があると記された上で、「まことに浴することしばしばなれば、皮肉うるおひ筋肉に通りて心神ゆるく、偏(ひとえ)に顔色をとどむるに ここちす。
彼桃源も舟をうしなひ、慈童が菊の枝折もしらず。
やまなかや 菊はたおらじ ゆのにほひ(初案)」(芭蕉真蹟懐紙より)と述べ、 山中温泉の効能を絶賛している。
「奥の細道」この段の最初の句「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」有力な解釈として”山中”は山中温泉を指す。
”菊はたおらじ”は、罪により深山に流された慈童が菊の葉の露で800年生きた(謡曲では700年)という 謡曲「菊慈童」を引いたものである。
”湯の匂”は温泉の匂いを指し、菊の芳香と対比させているようである。
聞いた話であるが、温泉の成分を家庭の風呂で再現しても、温泉の効能と同じだけの効果を得られないという。
つまり、温泉は湯だけでなくその温泉が持っている「温泉地」の効果(観光の効果?、土地のもつ効果?)が存在しているらしい。
手前訳は以下の通りである。
「山中温泉の効能はすばらしく、慈童が菊の葉の露で長寿を得たと聞くが、この温泉に入れば菊の露がなくとも長寿が得られるようだ」 この段は、江戸の千住から同行した曾良との別れの場面でもある。
曾良は腹を患い、奥の細道の旅を断念し、伊勢の国長嶋に独り急ぎ向かいたい旨を芭蕉に伝える。
そこで曾良が詠んだ句(書き置き→編集で芭蕉が改作)「行き行きて たふれ伏すとも 萩の原」曾良 <(初案)跡あらむ たふれ臥(ふ)すとも 花野原>(手前訳)「行き倒れとなっても、せめて萩の花(秋の季語)の下で野垂れ死にしたいものである」一般的な解釈として(下記に異説有)曾良は、西行の「願わくは 花の下にて われ死なん そのきさらぎの 望月ころ」を引いたと思われるが、師匠の芭蕉は<西行を引くことが>気に入らなかった<あるいは縁起を担いだ>ようで、句を変えられている。
これを受けて、芭蕉は「源平盛衰記(漢朝蘇武事の段)」 にある「雙鳧倶北飛 一鳧独南翔(李陵初詩)」 ( 手前訳:共に北に向かって飛び立ったケリの一羽が、途中で南に向かって分かれていく)を引き、(奥の細道本文)「隻鳧の分かれて雲にまよふがごとし」(手前訳:”この別れはあたかも”2羽で飛んでいたケリの1羽 が南に飛び、残された1羽が雲の中に入り彷徨っているようだ )と述べ、次の句を詠む。
「今日よりや 書付消さん 笠の露」”書付”は巡礼者が笠に書く「乾坤無住同行二人」である。
”露”は秋の季語で、旅すがら笠に染み込んだ水分(仏教では、修行で習得した徳を蓑笠に染み込んだ霧の水分の重みに例えることがある)と惜別の涙を意味する。
(手前訳)「今日から一人旅に相成りました。
笠に書いてある同行者の名前を手前の涙で消しておこう」曾良との別れを書いた「奥の細道」の名場面の一つである。
歴史好きの蛇足だが、手前は奥の細道の旅は俳諧紀行文の他に各国大名の諜報活動を兼ねていたのではないかという説を推している。
(むしろ諜報が主?)ここでは外様大名最大の石高を持つ前田家の動向を諜報していると推測する。
手前の仮説は以下である。
この段冒頭に(山中温泉は)有馬(有明)温泉に次ぐ効能であると記されている。
有馬温泉は、かの清少納言も「枕草子」で名湯と記すほど古くから名高い温泉であり、温泉で9種類あるといわれる効能の7種類を含有する名湯である。
加えて、芭蕉は畿内に隣接する伊賀の国出身であるので、真っ先に有馬温泉が出るのは妥当なのかもしれないが、板東の人が名湯というと「お医者様でも、草津の湯でも」と言われる通り、上野の国の「草津の湯」が有名である。
「有馬温泉」の復興には豊臣秀吉が大きく関わっている。
つまり「有馬温泉」は秀吉の暗示である。
「山中温泉」は前田利家お膝元である。
つまり「山中温泉」は利家の暗示である。
板東の人が連想する「草津温泉」には真偽は別として、こんな話がある。
徳川家康が、晩年の豊臣秀吉と前田利家を療養の名目で草津温泉に招いたことがあった。
この三人は当時の三大勢力である。
この際、良薬と偽って(遅効性の)毒を盛ったという説がある。
2人を信頼させる為に、接待者も毒と知りながら自ら飲んで(こういう行為は、当時の日本人固有の概念<例えば殉死なども同様>で、極東軍事裁判<いわゆる東京裁判>以降の日本人の概念では失われているようである)秀吉と利家を安心させた上で2人に毒を飲ませる、毒は徐々に効果を示し、秀吉が他界し、翌年利家も鬼籍に入る。
二人の死後家康の横暴が始まり、関ヶ原の合戦を経て、徳川幕府が成立することになる。
「奥の細道」に戻って、「草津温泉」を暗示しながら、「草津温泉」出てこないことは、”前田家に草津温泉の時のような謀略は必要ない。
→前田家に謀反の疑いはない”ということを示しているのではないかと勝手に思うところである。
無論理論的根拠(エビデンス)がある訳でないので歴史好きの戯言(たわごと)にすぎないのだが・・・。
もうひとつ云わせてもらえば、長寿の名湯を記した段に曾良が病で離脱する話を載せるのは些か違和感を拭えないのが本心である。
(「那谷寺」の段で書く訳にもいかないだろうが・・・)また、芭蕉は奥の細道の旅後に西国の旅を所望していた文献もあり、曾良の書き置き「花野原」を秋の花はたくさんあるが「萩の花」にしたのは、萩→毛利家の暗示と読めてしまう。
”曾良よ次は毛利家の諜報活動だ”とするのは、個人的な妄想である。
芭蕉の墓は遺言の「木曽殿と塚を並べて」とあり、敬愛する西行が非難した、木曽義仲の墓に隣接している。
この地を選んだのは琵琶湖の風景に魅了されたという説もあるが、芭蕉の立場が義仲と通じるもの(天下の大事を成し遂げた後に起こった悲劇)があり、そこに人生を重ねたのではないかと・・・。
旅の後、義仲寺の月見の句会で「月見する 座に美しき 顔もなし」と詠んでいる。
この句は時代に呑み込まれ、幕府の監視下で不本意に時を過ごしている芭蕉の本音なのかも知れない。
悪政の名高い綱吉の将軍時代に謀反を企てることは同調を得やすい。
幕府を支える要人の苦労は想像に容易い。
そんな時代にこのような形で諜報活動が行われていたのでは・・・。
文学作品である「奥の細道」は諜報活動を偽装するための要素も含まれているのでは・・・。
実は「奥の細道」は国家水準の要員で編成、編集され、謡曲や歌枕遍歴が話の主体となり、わざと誤字を散りばめて偽装しているのではないか・・・。
根拠のない想像は広がるばかりである。
奥の細道の旅は元禄二年(1689年)で「奥の細道」素龍清書本が完成するのは5年後の元禄七年(1694年)四月で、この年の十月に芭蕉は鬼籍に入る。
余談であるが、雲巌寺の投稿と同様、編集時に誤って口コミを消去してしまい最初から作り直した。
動機付けを保つのが苦しかったが、何とか仕上げられた。
今回は懲りて別で作成して貼り付けている。
ここを訪問したのはオリンピックに出場したことのある総理大臣の内閣の政策で、高速道路がどこまで行っても1000円だった最後の週に訪れたと記憶している。
栃木から日帰りで永平寺、山中温泉、篠原合戦場跡、首洗池そして多太神社を訪問して(那谷寺と大聖寺<持>は諦めた)その日のうちに自宅に戻った。
当時の愛車が長距離運転を苦にしない設定(4気筒前輪駆動だが構造的過気吸を加え2300cc Max. 131kW 215N・m 6速の変速比も申し分なかった)の上、手前も若かったので難なくこなせたのであるが、今では無理ですね。
名前 |
芭蕉堂 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0761-78-0330 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
鶴仙渓遊歩道の黒谷橋のたもと、木々の緑をバックに、俳聖芭蕉を祀った御堂が大聖寺川の渓流に面し建っています。
北国行脚の折りに立ち寄り、名湯ぶりを讃えたことに由来します。
堂内には芭蕉の小像が安置されています。