名前 |
花長上神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
創建年月不詳古くは上鼻長大明神と云ひ近くは七社明神と云ふ 延喜式神明帳曰 美濃國大野郡三座の内花長神社 美濃國神名記曰 大野郡三十二社の内正一位花長大神里伝曰上花長下花長の両神社は御夫婦なるが故神祭隔年なりといへり 七社神社とは祭神七柱在て何れも古雅ゑるものなれば唯祭神の数によって後人称号せるものとみRたり 茲に当社の原因を索ぬるに釋日本紀曰尾張風土記中巻曰丹羽郡吾縵郷巻向珠城宮御宇天皇品津別皇子七歳而不語傍同郡下無能言之乃後皇后夢有神告曰吾多具國之神名曰阿麻乃弥加都曰女吾未得祝若為我充祝人皇子能言亦是壱考帝卜人?神社者日置部等祖建岡君と食即遣?神時建岡君到美濃國花鹿山擧賢樹枝造縵誓曰吾縵落花處必有此神縵曰落花此間乃識有神因堅社由社名里後人訛言阿豆良里也(尾張國丹羽郡吾縵村式内阿豆良神社有祭神天甕津日女神と言小説あり)抑当社の形境たるや後には叢々たる賢樹の大樹多く前にはうつうつたる杉の森立せるあり 亦山腹に舜屹立せる大巌あり 之を神樂岩と称すこは是中古迄此の巌傍において神楽を奏せり而して亦た一箇の磐石ありこを神輿岩というこれにて御輿を駐御せしと云ふ 加之東南御大町を隔て祢宜街道あり又中林寺の東に当て中街道あり 是皆往古当社に就ての形迹也實に盛大の迹今猶感古の想を起さしむ尓り 而して鎮座の山を中山という こは往古花鹿山とありし発語の畧なり 故れかかる昭々の明徴ある上は社号の花長確に波那迦と称す可きこと無論のことなるを古来謬に誤を傳て花長を鼻長とし祭神猿田毘古大神と附合せるは太しき誣説という可 而して天甕津日女命の本縁たるや出雲風土記仮字書曰く 秋鹿郡伊農郷家正西一十四里二百歩出雲郡のイヌの里にいます 赤衾伊農意保須美比古佐和気能命後天甕津日女命國巡りしましし時ここにいたりまして詔はく伊農ハャと詔給ひきかれ伊努という神亀三年字を伊農とあらたむとあり(同郡伊努社あり伊努社は古史傳に天甕津日女命也称伊努郷客大神)就中徴效の炳然たる者は木村住人平氏平野代助が家系の日記に此花長神の神験ありしよしを記せり 某家系曰 六孫王?ャ經八代苗裔平野三郎頼茂十四代末孫三郎政勝仕豊臣秀吉公文禄三年癸巳二月卒葬於丸山政勝之男平野孫兵衛政吉(母者高橋氏某女)属稲葉伊豫守之幕下慶長三年憂病而退隠於名禮村也病漸愈而後妄毀於一郷惣社七社明神宮社而奉遷宮於西之洞塔尾而社地境内之迹新構居宅住之也因茲受明神之崇俄失正気言語不通甚能乱也妻子春族驚恐而速毀新宅明神社如先規建立之奉遷於神霊社地境内地続之山林多奉寄付之贖其罪而数月日夜奉祈祷於宥赦之矣也然而後雖正気漸復言語不通竟不語之病不愈而慶長八年癸卯正月朔日卒矣也齢五十一歳葬於丸山噫乎夫れ本社草創之本縁は折に由て品津別皇子言語不通の唾病を癒し横道によって平野氏が言語を啜の古今不易幸福言語に仍て賞責を現し賜しこと是併て祭神天甕津媛命の本縁たる者也夫れ尓り尓る上は祭神七柱たりと?も而も主神たる者は必然天甕津媛命に更に疑を容る可からさるもの也かかる由緒の社格たるを以て明治十二年六月二十日縣命を得て郷社の格に加列して奉崇せり。