延期式神名帳にも載っている、由緒のある神社です。
ここは、大和朝廷の最前線の守りの場所であったという。
祭神は応神天皇(おうじんてんのう)神功皇后(じんぐうこうごう)神社の比奈は飛騨や夷(えみし、古代の日本における東方の異民族)を意味しています。
大和王権にとって尾張への侵攻に対する防衛拠点が比奈守神社一帯であり、その東を流れる境川が当時の木曽川で美濃と尾張の境となっていました。
鎮座地の地理的重要性が見て取れます。
明応4年(1495年)、戦国時代の兵火により焼失。
元禄年間(1688年-1704年)再建、上茜部出身の八郎右衛門という者が寄進したと伝わっています。
江戸時代まで「飛田森神社」「飛騨守神社」と称していました。
明治4年(1871年)、村社に列し、明治6年(1873年)に現社号に復してました。
なお、式内社「比奈守神社」の論社は他に、市内蔵前の手力雄神社があります。
現在の社殿は、本殿以外は昭和50年(1975年)以降の再建とされています。
境内社に、豊受神社、豊川稲荷大明神、秋葉神社、津島神社があり、拝殿前に大正8年(1919年)建立の狛犬があります。
創祀不詳なれども、延喜式神名帳美濃國厚見郡(三座の内)比奈守神社美濃國神名帳厚見郡(十八社の内)従五位下比奈守神社は当社なり。
その他旧加納藩神名帳美濃國明細帳塘叢新撰美濃誌美濃國式社考橋不破本神名帳岩井本神名帳等諸書に記載する所にして、式内古社なること明なり。
然るに此の地は明応年中時陪臣石丸玄蕃利光(斉藤利藤臣船田上茜部の内)に新城を築き、土岐の宗家と合戦の時、社殿及び旧記等兵火の為に灰燼となる故に勧請年暦並びに上古の事蹟不詳。
その時此辺民家多くは散亡して社殿再建せんとするもの無かりしに其の後上茜部出産の八郎右衛門と云ふ者越後國に在り、彼の國其の藩士となりて是を嘆き、金若干を寄進し、社殿を造営す。
現金存する所是なり。
従前社号飛田森と訛り来る所、明治元年神社取り調べの際前記比奈守と改号す。
同社奉仕修験職慈性院明治元年復職して神主に転職す。
明治四年村社に列す。
見るべきポイントない。
落ち着く神社。
仕事がうまくいくように祈願した。
ひっそりとした場所に鎮座しています。
大きい通りからは分かりにくい場所ですが参道も長が目です。
拝殿は今風の造りですが、地元の神社としては良い雰囲気の場所です。
ここの神社は、延期式神名帳にも載っている、由緒のある神社です。
祭神は、応神天皇と神功皇后です。
俗にいう八幡さまです。
街中の静かな小さな神社です。
名前 |
比奈守神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
鳥居からの長めの参道など静かな神社でした。
社殿はコンクリート製で戦前に描かれた戦艦の絵が掲げられていました。