頂上付近に石垣が残っています。
かなりの急傾斜なので登城に苦労したが、本丸付近の石垣を見ると登城した甲斐があったな。
登り口の神社付近は駐車場所がほとんど無いので近くの富之保大洞河川公園の駐車場を利用した。
頂上付近に石垣が残っています。
ただ山域全体が山城遺構だったのですが、市の管理等ではないので伐採にともなう林道造成などで若干形が変わってしまったようです。
しかしそれは仕方のないことですね。
一柳城跡(大洞城)岐阜県関市富之保にある山城で、現在は主郭に石垣や土塁、城郭遺構として堀切や竪堀で形成された曲輪など現存していますが、林道の開発などで消滅した遺構もあるようにみえます。
登城路からは盆地の街並みも観ることができます。
【歴史】築城年代は定かではないが、元は大洞城でした。
美濃が織田信長の支配となった時代に一柳伊豆守直末が改修し一柳城と言われます。
天正12年(1584年)直末は竹ヶ鼻城に移り。
その後天正15年(1587年)秀吉は郡上八幡城の遠藤慶隆を追放し稲葉貞通を入封させ一柳城はその支城となりました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦時に遠藤氏は東軍に属し郡上八幡城、一柳城を攻め。
合戦後は郡上八幡城に再び遠藤氏が入城しますがその後一国一城令により一柳城は廃城となりました。
【アクセス】城跡の西南にあるグラウンドから林道があり、比高差100m程度で徒歩10分ほどで主郭に至ります。
帰路含めて約30分ほどの散策コースです。
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一柳城(ひとつやなぎじょう)は、岐阜県関市(旧美濃国武儀郡)富之保一柳にある日本の城跡(山城)。
築城年代は明応年間(1492年から1501年)までの間とされ、美濃国守護土岐氏の家臣と伝わる宇佐見丹波守弘房が大洞城を築城し先谷八幡宮を造営した。
天正12年(1543年)には宇佐見左衛門尉という人物が先谷八幡宮へ大般若経600巻を寄進している。
その後美濃を攻略した織田信長は、郡上八幡城の遠藤慶隆の南下に備えて、大洞城を一柳直末に命じて改修させる。
その際大洞城から一柳城と改称する。
その後、加治田城主の美濃斎藤氏利治の領土となり支城となる。
斎藤利堯病死後、加治田城(廃城後)に次ぐ重要拠点となる。
森長可が小牧・長久手の戦いで討死後の1587年、豊臣秀吉は遠藤慶隆を転封し、一柳城(大洞城)に稲葉貞通を入封。
稲葉貞通は郡上八幡城を中心とし、中でも大洞城は加茂郡から郡上八幡に至る重要な位置にあり重視された。
大洞城 一柳城(ひとつやなぎじょう)とも言われているそうです。
中濃地域のお城には珍しく石垣が組んであり、たくさんの遺構は無いものの、石垣好きには楽しめました。
本丸からの眺望はありませんが、三の丸(らしい)からは眼下の街道を見ることができます。
スーパーマルマンさん横から行くルートだと急勾配の谷を上がっていくルートになります。
富之保グランドからもいけますが、こちらは勾配がゆるく、林道ができたのでサクッといけます。
頂上には螺旋状の石垣が残存しています。
名前 |
一柳城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
野球場の脇、ホームベース側から登ることができます。
四駆でぐいぐい行けば、途中まで登ることはできそうだけど、それなりに草は生い茂っていて、普通の人が行くべきところではない感じです。
(中学生が野球の試合をしていて、親を含めて50人くらいが食事をしているところ、そのすぐ側を通って、独りで山の中に分け入っていったため、いったいこの人は何をしに来たんだろうと奇怪な目で見つめられるという。
)そんな感じで10分ほど登っていくと、削平された曲輪?っぽいところがあり、そこから藪の中に突入。
いきなり石垣が!全く期待していなかったけど、う~ん、城跡♥️