ここに神社があったらよかったのに...。
1945年5月29日、朝から空襲警報が鳴った。
リュックを背負い左手に荷物を持ち当時5歳の弟の手を引き防空壕へ急ぐ。
親は「戦闘員」だから防空壕へ入れない、兄たちは勤務する軍需工場を守るため出て行った。
5歳の弟が「眠い、眠いよー」と泣く、弟を叱咤して防空壕に入るとすぐさまヒュー、ヒューと音を立てて焼夷弾が落ちてきた。
防空壕の入り口でむしろに座り泣きながら燃える街に向かって題目と唱えているおばあさんがいた。
隣の家が燃えた。
そして自宅にも燃え移った。
自分の家が燃えている。
私も泣いた。
電柱の電線が焼けてバチバチ音をたてていた。
そして、焼夷弾が落ちてこなくなった頃、町内会から「県立第二中学(現・翠嵐高校)に避難せよ」との指示があり、再び荷物を持って弟と一緒に、第二中へ走った。
途中、防火用水に頭から突っ込んで、死んでいる人。
消防車が焼けて、その下で3人の人が死んでいたのを目撃した。
黒焦げになった遺体がたくさん路上にあった。
敵機からダダダと音と同時に、走っている前後に機銃掃射を受けたが、夢中に走った。
そして、やっと第二中にたどり着いた。
親の回想である。
北朝鮮のやってきたことがわかり腹立たしく、悲しくなります。
早朝行ったら、ホームレスのおじちゃんが寝てました(笑)
毎年11/1の11~12横浜市戦没者追悼式が行われる。
名前 |
横浜市戦没者慰霊塔 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.7 |
ここに神社があったらよかったのに...。
ちょっとさみしい感じ。
まぁ、とにかく英霊に感謝しましょう。