明治記念之標(日本武尊像)。
金沢大学名誉教授の廣瀬氏(コーヒー好き)は、この兼六園にある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)像を見て「周りの木にハトがたくさん止まっているのに、なぜ銅像には寄ってこないのだろうか」という点に着眼し、2003年に「ハトに嫌われた銅像の化学的考察」で「人々を笑わせ考えさせてくれた業績」に贈られるイグノーベル賞(化学賞)を受賞しています♪ヤマトタケルノミコトすごい!!小学生の頃、母に連れられて兼六園で写生したことが懐かしく思い出されます♪兼六園は、幼い頃から年に一回は必ず行っていますが、やっぱり良い所ですね♪
初の日本製銅像、にほん銅像の原型という貴重な代物成分にヒ素が多くて鳥が寄り付かず糞がつかないらしいことで有名だが、その正体は西南戦争の石川県戦死者400名の忠魂碑しかし個人的な意見としては「この場に相応しくない」としか言えない忠魂碑としてのコンセプトではなく造形物としての容姿が兼六園にそぐわない忠魂碑なら神社か城にでも置けばいいし、威圧的に剣を構える姿に優雅さはなく、無駄に大きい顔は滑稽にさえ映る当初は金沢市民にも評判は悪く、戦後はGHQに軍国主義的と撤去を指示されたが「これは仏である!」と強論を展開し何故か回避された昭和末にも老朽化で撤去論があったが、100年の時は金沢市民の愛着を育み今では立派な兼六園の仲間になったしかし鳩だけは未だにこの像とは和解できずにいるようだ。
兼六園にあるヤマトタケル像。
この像は、世に「日本第一号の銅像」として知られています。
約130年も「鳥が止まらない像」としても有名です。
幼い頃、兼六園は無料で開放され、贅沢な抜け道でした。
近くを通る度に、この像に違和感があったことを憶えています。
子供心にも、この銅像が兼六園の風景に馴染まないと思っていたのでしょう。
齢を重ねた今でも兼六園の風景にはそぐわない像だとの違和感はあります。
明治13年、西南戦争で戦死した石川県出身軍人の慰霊のために明治紀念之標が兼六園内に建てられました。
建立に際しては明治天皇や旧加賀藩主の前田家からも多額の寄付が寄せられたとのことです。
その中央に位置するのが、高さ5.5m、重さ5.5トン、日本最古の銅像とされる日本武尊像です。
当時は、金沢県やら富山県やら、編入・分県でゴタゴタしていた時代のため、金沢の鋳物師と高岡の鋳物師の間で請け負い合戦があったようです。
結果的には高岡の名工 金森藤兵衛が造りました。
そういった経緯もあり、金沢では、兼六園に不釣合いな像だとの声がかなり多かったとのことです。
恐らく私の違和感は、こういった話にも影響されているのかも知れません。
その後、全国の金物が強制供出された太平洋戦争時でも供出を免れ、戦後の進駐軍の撤去命令にも平和を願う“仏”であるからと抵抗して現在に至っているとのことです。
最後にこの像に関したトリビアを一つ。
「この像には鳩や烏が近寄らない。
鳥のフンの跡がない。
鳥も恐れ多くて近寄らない」という都市伝説がありました。
これに注目した金沢大学の廣瀬教授が、銅像の成分を分析して鳥の嫌がる電磁波が発生していることを突き止めました。
そして、鳥が近寄らない合金を開発し、2003年に「イグ・ノーベル賞」化学賞を受賞しています。
明治記念之標(日本武尊像)。
説明書きに「日本武尊の像 明治10年(1877)西南の役で戦死した郷土出身の招へいを祀った記念碑である。
銅像の伸長5.5メートル、台石の高さ6.5メートルで明治13年(1880)に建てられた。
」とありました。
ヤマトタケルノミコト…ぽっちゃりしてました。
幼少時に金沢にいて、兼六園近くの北陸幼稚園に通っていた中原中也が、大人になった再訪し、この像の下で涙したことが有名。
以下、「金沢の思ひ出」BY中也 「兼六公園で驚いたのは、大和武尊の銅像であつた。
そいつを僕はすつかり忘れてゐた。
然し、それが朝の空に聳り立つてゐるのを見付けた瞬間、愕然と思ひ出した。
それからその銅像の下に行つて休んだが、涙が出て来て仕方がなかつた。
」
名前 |
明治紀念之標 |
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ジャンル |
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電話番号 |
076-234-3800 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point_win/23/index.html |
評価 |
3.9 |
初めての金沢訪問、兼六園の素晴らしさに感動。
この銅像の経緯は案内で読んだが、ビジュアル的、雰囲気的ともに違和感なくこの場に自然な感じで溶け込んでる印象に感じた。
晴天のもと、銅像からは何か強力なオーラを発しているような威厳と風格もする。
情報によれば、鳥が近づかないとのことであるが、光とかではない、何かわからないが目に見えない眩しさを感じる。