事前に御朱印を頂けるか電話させて頂いた所繋がらなか...
宝物殿は予約がいります。
300円×2人で丁寧ねいに説明して頂きました。
伊藤実盛の兜が時を超えて此処に存在している事に感動です。
この神社にはもっと宝が眠っているような予感がしました。
初詣でに初めて行きました。
おみくじは何処にでもあるありきたりのもので、妻は大吉、私は吉出たのに、全然嬉しくありませんでした。
このタイプでは今まで凶が出た事ありませんから。
げにも平士のものにあらず。
目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打つたり。
むざんやな 甲の下の きりぎりす。
小松駅から少し離れた旧商店街らしき通りにあります。
地味ですが非常に雰囲気があります。
平家の老将斎藤実盛が着用したという兜が社宝。
木曽義仲が供養としてこの神社に奉献したそうです。
松尾芭蕉もおくのほそみちでこの地を訪れており、この兜を詠んでいます。
「むざんやなかぶとの下のきりぎりす」。
こんなにドラマチックなエピソードがあるので、町興しに利用したらよいと思います。
斎藤実盛の鎧・兜が祀られている神社です。
木曽義仲の討ち取られた斎藤実盛。
実盛は義仲の命の恩人であり、その死を悔やんだ義仲により甲冑もこの神社に丁重に祀られました。
駐車場あります。
平家物語の印象的な登場人物のひとり斎藤実盛公に関連した神社。
実盛公の鉄兜を蔵する神社として有名。
また、後世には松尾芭蕉翁が訪れて実盛公を偲んで句を読んだので芭蕉翁ゆかりの神社としても有名。
決して大きな神社ではないが現地には実盛公や芭蕉翁の像や碑文があり大変興味深い。
しばし時間を忘れて歴史の感慨に浸ってみるのも良いかと。
残念ながら実盛の甲は見られなかったので、再度チャレンジしてみます。
肝心の本殿の主祭神の案内が分からなかったので、参拝するときに少し悩みましたが、帰って調べて、仁徳天皇他、歴代天皇、スサノオウノミコト等々でした。
事前に御朱印を頂けるか電話させて頂いた所繋がらなかったので電話を切りましたが掛け直して下さいました。
『多太神社ですが』『お忙しい所申し訳ありません、今週の金曜日に参拝させて頂き御朱印を頂く事はできますか?』『先に名前言ってよ』『すみません、〇〇と申します』『どちらから?』『〇〇県です。
』『何時頃来られますか?』『10時位です』『書き置きの御朱印になりますが良いですか?担当者がいると思うので着いたら電話して下さい』『分かりました、ありがとうございました』ありがとう位で電話ガチャ切り。
確かに当方が最初に名前を名乗らなかったのは大変反省しています。
当日到着し、電話した所『お忙しい所申し訳ありません、〇〇ですが、本日御朱印を頂けるか以前電話した者です』『今どこにいますか?』『神社に来ています』『前に電話もらってた方?担当者中にいるので中に入って下さい』中にいたのは会社名の入った作業着を来た方でした。
中に入ると作業着の方に宮司?さんから電話入って『今来てるよ』と作業着の方。
作業着の方は親切にして下さいました。
御朱印は頂けましたが、色々釈然としません。
平日昼に訪れたせいかひっそりとした感じがしました。
元禄2年(1689)7月、〔奥の細道〕旅の途中、小松に滞在した芭蕉は25日に〔多太神社〕を訪問、斎藤実盛の兜などを見ている。
また7月27日、山中温泉に向かう前に再度立ち寄り、句を奉納した。
神社参道には〔奥の細道〕由来の碑・像が並んでいる。
・斎藤別当実盛公の像 木曽義仲の命の恩人であり、その義仲軍と戦い、加賀・篠原で、73歳を一期として討ち死にした。
(斎藤別当実盛公の像は埼玉県熊谷市 妻沼聖天山歓喜院にもある)・芭蕉句碑 むざんやな甲のしたのきりぎりす 芭蕉 平成15年(2003)9月、平成未申会建立の句碑。
・松尾芭蕉翁の像 ・奉納吟 むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉 ・・・ (芭蕉翁像の横)、同行2人の句も刻まれている。
・八幡さまの兜 むざんやなかぶとの下のきりぎりす。
たたじんじゃ多太神社小松市上本折町72御祭神衝桙等乎而留比古命 仁徳天皇 応仁天皇 神功皇后 比咩大神 軻遇突智神 蛭児命 大山咋命 素盞嗚命 継体天皇 水上大神鎮座地小松市上本折町72氏子区域小松市旭町飴屋町扇町上本折町幸町白嶺町清六町大文字町白山町三日市町光谷町大和町八幡町由緒当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。
社縁起によると、6世紀初め、武烈天皇の5年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ平安時代初期には延喜式内社に列している。
寛弘5年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。
寿永2年(1183)源平合戦のとき、木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。
室町時代初めの応永21年(1414)には時衆第14世大空上人が実盛の兜を供養された以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。
大正元年に本殿後方から発掘された8千5百余枚に及ぶ古銭は、室町中期の15世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである。
慶長5年(1600)小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて5丁8反243歩を寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永17年(1640)に社地を寄進し慶安2年(1649)の制札には能美郡全体の総社に制定し能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている。
元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道の途次本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し神領や数々の社宝を奉納になった。
明治15年に県社に指定された。
歴代の宮司はその人を得、よく精励し神社の守りにあたってきた、由緒と歴史を持ち、広く人々の尊信を受けてきた本社の神威はいよいよ輝きを加えている。
Website【石川県神社庁】から抜粋。
多太神社には、木曽義仲が斎藤実盛の兜を奉納したとされ、現在でも社宝とされている。
松尾芭蕉は、奥の細道の旅で山中温泉に向かう前に、多太神社に詣でて、実盛の兜などを拝観したとのこと。
芭蕉と、同行の曽良と北枝はそれぞれ次の句を詠み、当社へ奉納した。
「あなむざん甲の下のきりぎりす」(松尾芭蕉)「幾秋か甲のきえぬ鬢の霜」(曽良)「くさずりのうら珍しや秋の風」(北枝)芭蕉の句は、奥の細道に掲載されている句と若干異なる。
こちらの方は、芭蕉が現地訪問し、現地で詠んで奉納したもの。
参拝後に神社内にいた方に睨まれた感じがした。
御朱印をと思ったが帰ってきた。
斎藤実盛の兜が奉納された神社。
松尾芭蕉が奥の細道で平家物語の言葉を引いて句を詠んでいる。
奥の細道では底本にしたがい実盛が真盛になっている。
兜は篠原の合戦の折り実盛が着用したとされるが、現代より信仰心の深いこの時代に平家の武将である実盛が源氏の守護である八幡菩薩を刻んだ兜を着用するのは不自然である。
この兜は木曽義仲が元服のとき実盛が祝いに根々井行親を通して贈ったものであると思われる。
歴史的に意味のある神社である。
蛇足になるが平家物語では実盛の長男は「五」としているが実際は「火打合戦」に登場する尾張守を冠した斎藤太が長男である。
Here, at Tada Shrine, in 1689, the haiku pilgrim Basho saw the helmet of 12th cent. warrior Saito Sanemori, and composed a memorable haiku "How piteous!" Beneath the warrior's helmet a cricketIn a noble and courageous action, before battle old Sanemori dyed his grey hair black. His head was cut off in the fray, and later identified by the enemy general Higuchi Jiro, who exclaimed in pity "Muzan ya na!"
平成23年1月22日に小松市内の神社を巡りご朱印をいただいてきました。
安宅住吉神社,莵橋神社,葭島神社,小松天満宮,本折日吉神社,そして多太神社へ。
社務所にはご朱印受付の張り紙もあったが,誰もいらっしゃらないので,電話で確認することに。
電話に出られた宮司さん?すごくご機嫌斜めの様子,しまいに何処にいるんだとの問いに,神社敷地内の駐車場にいると答えると電話をいきなり切られ。
神社とは違う場所から来られるのかどうかもわからず,とりあえず社務所の前で待っていると,いきなり社務所のカーテンと窓を開けられたので,近づいてお礼を言うと,自分でご朱印を押せと怒り口調…押させてはいただきましたが,社務所内から去られる際も窓やカーテンを閉める行動は完全に怒っている。
多太神社へ来るまでは,それぞれ丁寧な対応をしていただき有り難く思ってきたのですが,こちらではビックリ!これまで多くの神社・寺を回っていますが,このような対応・態度は初めてでした。
できれば電話で問合せした際に断っていただいた方がこちらとしては良かったですね。
いつもこうなのか,それとも神職と言えども人の子,機嫌の悪い時もあるのか。
神社は歴史もあり参拝する価値はありますが,ご朱印をいただく際には要注意です。
名前 |
多太神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0761-22-4089 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
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休日でしたが全く人の気配がありませんでした。