武田勝頼終焉の地逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行...
武田勝頼公と妻、長男と家臣の寺としてゆうめいです。
門をくぐり庭の正面に小さな松の木が植えられています。
そこで勝頼が自決したと伝えられています。
右側に勝頼と家族のお墓があります。
墓の中には経石がたくさん収められております。
南に少し下ると右手に道祖神があり、玉石が7~8つ程度ありますが、祭り日に子供たちがその石を下の首洗池にてきれいにして元に戻す儀式が今でも続いています。
道祖神を2mほど降りると左手に小さなお墓がありますが、これが実際の勝頼公のお墓です。
武田家滅亡した寺として受け継がれてきたお寺を是非参拝ください。
武田家16代信玄率いる武田軍は徳川家康に大打撃を与えて進軍、野田城を落とし、長篠城へ入ります。
天下に号令する日は、すぐ目の前でした。
しかし、病状は悪化、四月十二日、帰国の途で他界七ます。
遺言は「三年の年問、わが喪を秘すべし」。
夢は武田家17代勝頼に託されました。
ところが、天正三年(一五七五)、勝頼は長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗。
いちじるしく勢力を失っていきました。
勝頼は天正十年(一五八ニ)三月、連合軍が南北から侵攻してくると、入城して二ヶ月ほどしかたっていない未完成の新府城を捨て、岩殿城へ向かいます。
三月三日、勝沼の大善寺に身を寄せたが、岩殿城の小山田信茂に裏切られたため、武田家10代信満の眠る天目山栖雲寺を目指し逃れますが、織田・徳川の連合軍に阻まれた。
勝頼の自決する時間をかせぐために、土屋惣臧が、足跡も崩れ落ちるほどの細い道の岩場で、片手で藤蔓をつかみ片手に刀を振りかざして敵陣を切りつけ、岩場から下の日川に落としていった。
そのわずかな時間で勝頼は田野の地景徳院で、北条夫人と長男とともに武田家17代信勝は自決し家臣も自決。
ついに新羅三郎義光以来、五百年続いた甲斐源氏の流れをくむ武田家は滅亡しました。
しかし、五百余年経った今でも、武田家が歩んだ道は甲州市で「武田の道」として今でも生き続けている。
今は立派な寺ですが、勝頼一行が自害した際には、なんとも寂しいただの山林だったろう。
こんなところで自害した武田勝頼の心中とはいかようだったか?また、共に果てた若妻や自害するためにここで元服した息子の気持ちなど想像するだけで泣けてきます。
武田勝頼公墓所はひっそりとした山の山中、もし小山田氏の岩殿山ではなく、真田氏の岩櫃へむかっていたのなら歴史は大きく変わっていたのにとその空気を感じました。
土屋昌恒の片手千人斬りはここかとそれも偲びました。
時間が流れて風化したとしても事実は何も変わらない。
山肌や木立から立ち込める凛とした冷気に静かに手を合わせてその地を去りました。
甲斐武田氏終焉の地‥武田勝頼一族郎党約50名が織田・徳川連合軍に追い詰められ自害した場所。
後に徳川家康が菩提を弔うため建立したそうです。
当時の厳しさと切なさを感じながらお祈りしてきました。
ゆっくり静かな時間が流れています。
武田勝頼の墓所があるお寺です。
歴史好きな方には色々な物語がある所なので良いと思います。
ナビに入れて行くと細い山道を本堂の裏側の駐車場に案内されますが、下の広い駐車場に停めて階段を登るのがオススメです。
初冬に訪れたため銀杏がたくさん落ちていて、芳しい香りが漂っていました(笑)
武田3代目勝頼終焉の場所で徳川家康が自刀した魂を供養するために建立したお寺。
武田家3代天下統一を夢見た墓が、甲州市に有ります。
信玄公の恵林寺同様、巡り訪れたい寺院です。
武田家のお墓が有ります。
とても綺麗にしているお寺です。
皐月も綺麗に咲いている山門は雨上がりの静かなひと時を過ごすのにとても良い空気に包まれておりました。
急な階段か、急な山道を登って辿り着ける武田家のお墓を見ると若くて世を去った人の無念さを少し感じ寂しい気持ちにさせます。
御参りしてよかったと思います❤️
ここは武田勝頼が祀られているお寺さんです。
静かな山合にあり、春は桜🌸秋は写真のような紅葉がきれいです。
人が入って来ません!静かです。
景徳院は武田家の終焉の地です。
新府城に火を放ち岩殿城を目指すも小山田信茂の裏切りにより進路を断たれ、田野で敵に囲まれて討死。
勝頼37歳、北条夫人19歳。
嫡男信勝16歳でした。
参拝者はいなくて淋しい感じでした。
歴史好き(特に戦国時代)なら訪れる価値があるかと思います。
戦国時代最強とも言われた武田家ですがこの場所が滅亡した所だと思うと栄枯盛衰、儚い思いがします。
春を感じました。
由緒あるお寺です。
桜の時期に奇跡的に出会いました。
桜の古木ですが、見事という他に、言葉が出ませんでした。
この写真は令和三年四月二日のものです。
景徳院は武田家終焉の地です、徳川家康の命により建立された寺で、境内には武田信勝公が世継ぎの儀式を行った場所とされる旗竪松(言い伝えによると織田軍に追われていた勝頼公は、世子の信勝公が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった楯無の鎧を着せ、擐甲の礼(世継ぎの儀式)を行いました、その際重宝旗を大松の根元に立てたといわれる)、武田勝頼公親子が自刃した生害石、お墓、勝頼公親子の遺骸を埋葬した場所、首洗い池(勝頼公、信勝公父子の首を洗ったとされる場所)、武田慕情歌碑があり、景徳院の諸堂は焼失してしまったが、山門のみが火災を免れ当時のままの姿を残しているとの事で、現存する山門は歴史を見続けて来たのかなと思いながら静かな境内を歩いているいると境内に有る、武田慕情歌碑の詩が心をつかみ♪夕日に染まる甲斐の山こだます鐘に春おぼろ、戦いくれたつわものの、大和ごころを知るように舞い散る花は山桜(苔むす森に蝉しぐれ、夢うたかたのまぼろしか、しずかに眠る勝頼の無念の涙を惜しむよに、天目山の夜半の雨、山狭深くせせらぎは紅葉をうつす流れ帯、人馬のひびき歴史は過ぎ、田野の河原に月の影、武田の里は今しずか)色々と感慨無量の想いでした!
国道20号線から天目山温泉へ向かう日川渓谷の途中にある景徳院。
温泉の更に上流には天目山栖雲寺があります。
駐車場はバス停や公衆トイレがある道路沿いと境内の2ヶ所あります。
景徳院は、武田家終焉の地に勝頼を弔うため徳川家康が建立したお寺です。
山門は度重なる火災を免れ建立当時のまま残されています。
御朱印(初穂料300円)は書置きのみ。
総門、参道、庭園やお墓や生害石のある甲将殿辺りを巡って没頭地蔵、首洗い池に戻ってぐるりと巡ると清々しい心地になります。
武田勝頼とご子息、奥様の菩提寺。
無念の最期でしたが、今は静かに休まれていると思います。
皆様も是非手をあわせに行ってください。
今こうして私達が生活を送れるのも戦乱の世があったからと思います。
武田勝頼氏のお墓があるお寺で、自害の地·武田家終焉の地と言われてます。
山門は大きさは普通ですが、凄く立派!左右の阿吽像も力強い作品!武田勝頼氏の仏塔のそばには、一緒に自害した家臣らの墓も隣接していて、その数等その時の情景を感じられる空間ですね!これだけでも終焉の地と感じられます。
勝沼インターそばの大乗寺と、天目山温泉センターの中間辺りかな?紅葉の季節は、寺内も廻りもすごく綺麗です!
武田神社からスタートして、レンタルサイクルで甲府五山を中心に巡りました。
旅の終わりに家に帰る途中に訪れました。
行きは甲斐大和からのバスの時刻に合わせて電車に乗りましたが、とにかく本数が少ないので、帰りは徒歩になります。
まあ帰りは下りなので20分程度のノンビリ散歩ですけどね。
武田家終焉の地としてずっと来たかった場所、その夢がようやく叶いました。
山の中にある古いお寺なので、静かでどこか寂しげです。
だからこそ武田家終焉の地としての雰囲気は抜群だと思います。
戦国大名「武田氏」に興味がある方は、絶対に来るべき場所だと思います。
御朱印について書いていないそうで、作り置きの物をいただきました。
それでもすごく嬉しいです、ありがとうございます。
武田勝頼公の文字が、終焉の地と言う場所が持つ意味と相まって胸が熱くなります。
武田家終焉の地。
戦国ファンとしてはとても切ない場所の一つである。
武田勝頼は父、信玄から引き継いだ家をさらに隆盛させることを夢見ていたのだろうが…戦国有数の名家の没落を感じることができる貴重な場所である。
勝頼一家の墓からは戦国ロマンと哀愁を感じることができる。
徳川家康が武田勝頼の最後の地に、その菩提を弔って建てた寺院です。
苦しめられた敵の大将の為に寺を建てるなど、考えてみればおかしな話ですが、家康は意外とそういう優しさのある人なのです。
苦労人で人の痛みが分かるのでしょう。
憎しみのあまり、運ばれてきた勝頼の首に顔面蹴りを入れた信長とは対照的ですね。
ここで最後の戦闘をする経緯について書きますと、まず織田徳川・北条連合軍による甲州征伐によって、勝頼一行は甲府を捨て、大月にある小山田信茂の岩殿城を目的地として逃亡していました。
しかし路中に信茂の裏切りにあい一行は立ち往生。
では、ここから行ける武田氏先祖の墓のある栖雲寺を目指そうということになり、山道を進み始めたのですが、こっちも地元土豪に道を塞がれてしまい引返して来たところが、この景徳院の前なのです。
勝頼一行はここで絶望し途方に暮れたことでしょう。
その数わずか43人。
非戦闘員である妻とその付人も含めての数でしょうから実数は更に少なくなります。
そして目前には追手の滝川一益勢4000が迫っていました。
鳥居畑の戦いなどと尤もらしい名前が付けられていますが、この戦力差では戦闘として成立せず実態は捕物に近かったのではないでしょうか。
それでも逃げず、結果は分かっていても死ぬまで戦い続けた勇者達に敬意を表して、現地を後にしました。
武田勝頼終焉の地逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。
しかし、その途上の田野で追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。
享年37。
これによって、甲斐武田氏は滅亡した。
後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。
大きな駐車場が道の脇にありすぐわかります。
山の中にある静かなお寺です。
ここに勝頼37才、信勝16才、北条夫人19才のお墓があり、戦国大名として天下をめざした武田家終焉地であります。
勝頼は偉大な父のプレーシャーの中で生き、時代に翻弄された運のない男だった。
当初は諏訪四郎勝頼と名のっていたが、この名前が彼の悲しみの全てを語っている。
彼は武田家の人ではなく諏訪家の人間であった。
織田軍に攻められ相次ぐ家臣の裏切りの中で、籠城し最後まで戦ったのは諏訪衆が守る高遠城だけであった。
この地に着いた時の従者わずか50名、悲し過ぎる!でも、一条の光は最後まで北条夫人がそばにいた事であると思う? *合掌*
1582年3月11日、織田軍に攻められた武田勝頼一行が自害したとされる地。
最後まで残った者は僅か43名、日川下流の四郎作、鳥居畑で家臣が時間を稼ぐ間、侍女は至近の断崖より川へ身を投げ、勝頼一行と側近はこの小高い丘にて自刃。
勝頼・嫡男信勝・北条夫人のお墓、辞世の句の碑、自刃した生害石、信勝に家督継承の礼を行った「旗竪ての松」などがあります。
頭部のない「没頭地蔵尊」は特に物悲しい。
景徳院入り口には武田家一行の首を洗ったという雨沢口「首洗い池」がありますが、標識が藪に埋もれてわかりづらくなっています。
電柱脇です。
以上は武田方甲陽軍鑑の記述で美しき最期とされており、徳川方の三河後風土記では自害する間もなく鳥居畑近辺にて討ち取られており、この景徳院も本能寺の変後に甲斐を領した徳川家康が武田家を丁重に弔いまたその事を宣伝し、武田遺臣と領民を懐柔・統治しやすくするのを狙い建立を進めたもの、というのが真相でしょう。
武田家の強さをほぼそのまま飲み込んだのは流石と思わせます。
現地には甲斐大和駅から是非徒歩で向かいましょう。
25分ほどです。
途中に四郎作と鳥居畑古戦場、先に土屋昌恒片手切りと大蔵沢思案石があります。
片道60分かからず、引き返しで勝頼公と同じ道程です。
私は栖雲寺まで歩きましたがこちらは少々辛いかも。
お寺の前は道が狭いので道路脇にある駐車場を利用した方が良いですが、高齢の方でもお寺の前に駐車場がありますのでそれを利用すると良いかと。
景徳院 2018年6月3日訪問 武田家終焉の地山梨県甲州市大和町(中央線甲斐大和駅)に建立された曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。
甲斐国最後の国主勝頼公と夫人そして信勝公、その家来約50人の墓があり、勝頼と夫人、信勝それぞれが自害したとされる平な石が保存されている。
この寺院を少し下ったところに武田軍と小田軍の最後の合戦場がある。
武田家終焉の場所として辛すぎる過去があるお寺。
勝頼公、夫人、子息の生害石が悲しいです。
広い無料駐車場がお寺の下に有り通常はこちらに。
本堂近くに狭い駐車場が有りますが、檀家の墓参用かも知れません。
下の駐車場は武田家の女性達の入水した場所に近く、首洗い池も直ぐ側です。
武田家終焉の地に立ち寄る事が出来ました。
甲斐の名門武田家20代武田勝頼公の最後の場所です。
甲斐、信濃、上野、駿河、遠江、三河、美濃の一部にまで版図を広げ後の天下人徳川家康が恐れ単独では一度も合戦をしなかった名将の武田勝頼公がたった一度の敗戦が原因でこんな山奥で従者僅か50数名と共に落ち延びたとは本当に悲しい。
この僅か一か月後には信長も本能寺で死ぬ事になるが本当に歴史の皮肉としか思えない。
何年に一回かはお墓参りに行きますが、甲斐大和駅から日川沿いを歩いて行くと鳥井畑の戦場なども見れます。
どんな気持ちでこの坂を上っていったのか…400年前はどんな感じのだったのか考えさせられます。
とても趣のある雰囲気です。
御朱印頂けます。
武田勝頼は天目山の変という事変で自刃したと記憶していましたが、実は天目山(棲雲寺、せいうんじ)には辿り着けず、この景徳院付近で自刃したとのことです。
勝頼は、甲斐武田最初の滅亡(1417年武田第13代信満が上杉に追われて自刃)の地、天目山に行って先祖に詫びを入れた上で自刃したかったが、それも叶わなかったのか、ということかも知れないと、ふと考え込みました。
名前 |
景徳院(田野寺) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0553-48-2225 |
住所 |
|
評価 |
4.1 |
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大菩薩峠、小金沢山を登り、下山後に立ち寄りました。
10分ほどで周れる規模のお寺ですが、此処が武田家終焉の地だったんですね。