追手千人を斬り倒した 伝説の地です。
武田勝頼の家臣土屋惣蔵昌恒はその片手で幾多の敵兵を切り捨て、下の谷川の水が三日間も血で赤く染まったと伝わっているようです。
武田二十四将・土屋昌続の弟、土屋昌恒と織田軍の合戦跡です。
去年も武田氏滅亡の月である3月に訪ねましたが去年同様記念碑の前に新しいお供えものがたくさんあり、大事にされていると感じました。
立地は崖で、山道で歩道が狭く車通りもそこそこあるので転んだりするとかなり危険です。
ここ含め天目山には土屋昌恒公ゆかりのポイントが多くあり(鞍懸、血洗沢など)、土屋昌恒公の人気がうかがえます。
山登り途中に見つけた歴史跡土屋惣蔵(昌恒?)片手切最後まで武田家(勝頼)に仕え、主君を守る為、この場所(細逕)で織田・徳川連合軍を迎え撃つ藤蔓につかまり、片手刀で応戦倒した敵兵1000人以上!その後、田野の郷にて自刃(享年27)(´Д`)他の方がバッチリ解説してます😁道路途中にある為、車の通行がかなりあり危険です。
駐車スペースは無いので、駐車場に停め歩いて来るしかないですね〜2021.05
天正10年(1582年)3月3日入城まもない新府城に日を放ち岩殿城を目指した武田勝頼公一族は武田家譜代家老衆岩殿城主の小山田信茂の謀叛により笹子峠でその進路を阻まれた3月10日それまで逗留していた笹子峠の麓の駒郷を後にした勝頼公は少なくなってしまった家臣を従え狭谷沿いに田野の郷に入った、そして3月11日天目山栖雲寺にむかうが織田・徳川連合軍に行く手を阻まれ大蔵沢の地にて勝頼公は路傍の石に腰掛けて思慮し田野の郷に引き返す事とするが敵兵が迫って来たので、♪八田の里に花とえば香煙かおる、刀塚武田の忠臣ここにありともども語るいさしおは、土屋惣蔵片手斬り武田三代六十三年愁風遂到天目山、主君よ姫よ若殿よご案じあるな諏訪法性念じてかざす太刀風土屋惣蔵片手斬り返り血あびて岩に立つ土屋惣蔵片手斬り♪(春日八郎さんの歌より抜粋)土屋惣蔵昌恒はもっとも狭い崖の道筋にて、左手に藤の蔓、右手に刀を持って迫り来る敵兵を切っては谷川に蹴落としたと伝えられ惣蔵に切られた武士たちの血で3日間も朱に染まり、三日血川と呼ばれ自然の楯のようなこの場所で寄せ来る敵兵を防ぎ沢山の人を片手斬った事からこの場所が土屋惣蔵片手千人切りと言われていて、土屋惣蔵昌恒の活躍奮闘により武田勝頼公主従は田野の郷まで戻り景徳院の境内にて従容として自刃したと伝わっているようです、最後まで勝頼公に従い、主君を守り抜いた武田家最後の忠臣土屋惣蔵昌恒の勇姿を思い浮かべながら、下に流れる日川の流れを眺めました!駐車は有りません、石碑の前の道路はカーブなので路駐は危険です⚠️日川渓谷レジャーセンターの入り口付近に車を寄せて停めさせて頂き、徒歩にて石碑まで行きました!
武田勝頼公天目山記所縁りのスポットガイド主君勝頼公を守るため、追手千人を斬り倒した 伝説の地です。
下が川になっており大人数で攻めてこられても攻め辛い位置にあります。
現地ならではの臨場感あるイメージが出来ました。
案内板より昭和56年2月1日指定天正十年(1582年)3月3日入城間もない新府城に火を放ち、岩殿城を目指して進んだ武田勝頼一族は、岩殿城主小山田信茂の謀反により笹子峠でその進路を阻まれた。
3月10日それまで逗留していた笹子峠の麓の駒郷(今の日陰)を後にした勝頼一族は少なくなってしまった家臣を従えて渓谷沿いに田野の郷に引き返した。
あくる3月11日この地の先の天目山栖雲寺に向かったが、織田徳川連合軍に行くてを阻まれ 大藏山より先に進むことができなくなり、田野の郷に引き返した。
この時家臣土屋惣蔵昌恒は主君の危機を救わんと最も壁道の狭いところで岩角に身を隠し、片手はフジの蔓を、片手に剣刀を持ち、迫り来る敵兵を次々に斬っては谷川に蹴落とした としたと伝えられる谷川の水は、三日間も血で赤く染まったと言われている。
昔の写真と合わせてみると崖下の川と急な斜面ですごいところで踏みとどまって戦ったのだと感じることができます近くの武田勝頼公最後の地(景徳院)と合わせて訪れると奮戦後に主君の元に戻り、最後の時を共にした土屋昌恒の生きざまに思いをはせられますが、歴史好きな方限定スポットですので注意。
山奥の雰囲気と案内板の細道だった頃の写真で片手切を感じることが出来ました現場ならではの空気感を味わってほしい。
案内板より 昭和56年2月1日指定 天正十年(1582年)3月3日入城間もない新府城に火を放ち、岩殿城を目指して進んだ武田勝頼一族は、岩殿城主小山田信茂の謀反により笹子峠でその進路を阻まれた。
3月10日それまで逗留していた笹子峠の麓の駒郷(今の日陰)を後にした勝頼一族は少なくなってしまった家臣を従えて渓谷沿いに田野の郷に引き返した。
あくる3月11日この地の先の天目山栖雲寺に向かったが、織田徳川連合軍に行くてを阻まれ 大藏山より先に進むことができなくなり、田野の郷に引き返した。
この時家臣土屋惣蔵昌恒は主君の危機を救わんと最も壁道の狭いところで岩角に身を隠し、片手はフジの蔓を、片手に剣刀を持ち、迫り来る敵兵を次々に斬っては谷川に蹴落とした としたと伝えられる谷川の水は、三日間も血で赤く染まったと言われている。
思案石から田野に戻る途中、上流からの敵を防ぐため勝頼側近・土屋惣蔵昌恒が「片手千人切」(大盛)と言われる奮戦をした場所。
片手は藤蔓につかまり片手に刀を持ち迫る敵兵を切っては谷底に蹴落とし、谷川の水は三日間血で赤く染まったと言われる(大盛)実際、断崖絶壁のカーブにあり、眼下は50-100mあろうかという谷底になっており、道路が無かった頃はさぞかし難路だったろうと伺わせます。
大正3年1月撮影の現地写真あり。
武田勝頼公に興味がない人には全く価値のないポイント。
車で通ったら気づかないくらい。
説明看板にある大正時代の写真を見ると在りし日の姿がしのばれるが、現在はなんということもない場所。
名前 |
土屋惣蔵片手切 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.3 |
周辺のオススメ
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この手の史跡のある場所は、今では道路が出来たりと地形が変わって、戦国時代の様は想像力を働かせるしかないのですが。
ここはちょっと違います。
ありし日の写真(道が細かった頃)が添えられていて、戦国の情景に思いを馳せる手助けをしてくれます。
こんな崖に潜んで、勝頼の最期の時間を稼いだ土屋昌恒。
この史跡と共に後世まで語り継がれて欲しいものです。