市民課の担当の方の心遣いが素晴らしい!
市民課のスタッフさん、親切な対応ありがとうございます!
土地柄なのか、仕事がのんびりし過ぎて遅い。
階段か長くて、急なので、年よりや障害のあるひとには、きつい。
呼び鈴があるがどれだけの人が押せるだろうか。
省エネルギーで、電気を暗くしているが、建物が古いので、不気味。
非常に迅速丁寧な対応でした❗ ありがとうございます。
職員みなさん親切で丁寧です。
市民課の担当の方の心遣いが素晴らしい!親切で丁寧です。
市民課の職員さんは懇切丁寧で有り難かったです。
多分一番市民と接する人たちなのであの極め細やかさは好感度だと思います。
お世話になりました!
改製原戸籍を取りに遥々 市役所に行きました。
窓口業務の方が、親切丁寧に 改製原戸籍他市の取り扱いについても 説明頂き大変助かりました。
何がどこにあるのか分かりにくい。
近い内に建て直しとのことなので次に期待。
まぁ普通の対応でしょう。
可もなく不可もなく。
キャラクターこめッちくん&まいまいちゃん⇒北海道の深川米をPRするために生まれたキャラクターで、緑のお茶碗が男の子の「こめッちくん」でピンクのお茶碗が女の子の「まいまいちゃん」。
東京にもお出掛けするなど、深川米を広めるために頑張っている📖イルムケップ(音江山)とカムイヌペリ(神居山) お互いの姿の美しさを競い合いけんかし、イルムケップは怒りのあまり何度も噴火した📖上川道路1886(明治19) 年、北海道開拓使は、北海道庁となった。
北海道庁は、北海道の開拓を進めるため上川(現旭川)の開発を急がなければならないとの方針で札幌から上川へ通じる道路を作ることとした。
当時、札幌から岩見沢までは道路があったが、それから北は原始林のままで、上川まで行くには丸木船で石狩川をさかのぼるしか方法がなかった。
北海道庁の命を受けた高畑利宜(としよし)は、石狩川をさかのぼり調査を行い、工事には、樺戸集治監の服役者を使った。
服役者たちは鋸や斧を用いて原始林を切り開き、90日余りのうちに市来知(いちきしり:現三笠市)から上川まで幅1.8mで、長さ約90kmの仮道路が開通した。
1887(明治20)年から3年間で砂利を入れたり道路幅を5.5mに拡幅し、馬車の通行が可能となった。
この道路は上川道路と呼ばれ国道12号の始まりである📖音江法華駅逓上川道路が開通してから上川方面にも開拓者がどんどん入るようになり人の行き来が増大した。
旅人の泊まるところや、交通に必要な馬を貸すところを駅逓といい、駅逓は上川道路の所々に作られた。
1889(明治22)年、音江法華(現深川市音江)にも駅逓が作られ、第2美英舎と名付けられた。
その後、駅逓を中心に運送業を営むものが多く現れた。
当時は駄鞍(だぐら)追いという一人の馬丁が先頭の馬にまたがり、背中の両側に荷物を積んだ5〜10頭の駄馬を引き連れて荷物を運搬するというものであった。
上川への交通が多くなるにつれて、駅逓の近くには、商店、食堂、宿屋等が出来てきた。
その中でも音江は最もにぎやかであった。
1892(明治25)年2月4日には、深川村が誕生した📖深川本通と渡船上川道路が出来た後、今の道道旭川深川線、道道深川雨竜線がつくられた。
この道路は、深川本通と呼ばれた。
雨竜から深川を通り神居古潭までの道路は、雨竜原野を開拓するために1891 (明治24) 年つくられた。
この道路は、上川道路と同じように、樺戸監獄署の服役者で作られたが工事は大がかりなものでなく細い道であった。
はじめの頃の深川本通は、雨が降ったり、石狩川が増水する度にぬかるみが出き、馬車が動けなくなるような道路であった。
また、木の切株や、ササの切口が残っていたため人や馬が怪我をすることが珍しくなかった。
このため、割木を敷いたり砂利を入れて改良を図った。
この道路は、石狩川の右岸に広がっている雨竜原野の開拓に大きな役割を果たした。
しかし、深川と音江の間にある石狩川には橋がなく、そこをわたる人々は渡船を使っていた。
1892(明治25)年、奥芳松(おくよしまつ)が渡船をはじめて以来、メム地区から納内地区までの間に10カ所ばかりの渡船場が作られ、多くの開拓者や屯田兵が利用した。
渡船は、川の両岸にワイヤーを張りそれをたどりながら舟を動かすもので、風の強い日や、増水のときは大変危険であって、舟が転覆し多くの人命が失われたこともあった。
冬は、氷の上に丸太を置き、その上に板とムシロを敷き雪をのせて水をかけてこおらせ、氷橋を作り人や馬が通行したが冬の初めや、雪解けの頃は大変危険であった。
1917(大正6)年、現在の深川橋の近くに船橋が造られた。
船橋は、川の両岸にワイヤーを張り、木の舟を沢山ならべ、その上に厚板を敷き並べたものであったが、増水のときや冬期間は使えなかった。
その後、1931(昭和6)年に旧深川橋が、1932(昭和7)年には旧納内橋が完成した📖上川鉄道現在の函館本線は、できた頃、「北海道官設鉄道上川線」と呼ばれていた。
1895(明治28)年、鉄道を作るための測量が始められ、3年後の1898(明治31)年開通した。
空知太から旭川までの鉄道の開通と同時に、深川駅と納内駅が開業し、それまで寂しかった深川市街が急ににぎやかになった。
特に、駅前には多くの家が建った。
鉄道が開通するまでは、滝川や旭川に行くには石狩川を渡って上川道路を通って行かなければならず大変時間がかかった。
また、荷物を運搬するにも多額の費用がかかった。
鉄道が開通してからは、安い料金で、早く移動したり物を運搬できるようになり大変便利になった。
その後、1910(明治43)年、深川〜留萌まで留萌線が、1941(昭和16)年、深川〜名寄までの深名線が完成し、深川市は交通の中心となった📖屯田兵広い北海道を開拓するためには、多くの人手が必要であったが、人手を集めるのはなかなか困難であった。
北海道開拓使次官黒田清隆は、ロシアの屯田兵制度を取り入れることとした。
1875(明治9)年、はじめて琴似村(現札幌市)に入植して以後、次々と屯田兵が入植してきた。
深川地区には、1895(明治28)年、一已に200戸、納内に100戸、翌年も同数が入植した。
屯田兵は、家族とともに入植したが兵隊の訓練が主で、土地の開拓はほとんど家族の仕事であった。
一已や納内地区は、それまで大きな木が繁り、ササや草が背丈よりも高く伸び、昼間でも薄暗く、隣の家も見えない状態であった。
開墾は、朝早く起きて木を切り倒し、日が暮れると、倒した木や枯草を燃やした。
日中は、燃やしたところを耕して畑にしてゆくというものであった。
一鍬一鍬手でおこす作業であったが、木や草の根が固く大変な作業であった。
耕した畑には、ソバ・大根・バレイショ・豆・アワ・トウキビ等を植えていた。
1898(明治31)年ころには、稲も作るようになり、また、リンゴの木を植えたり、カイコを育てるようにもなった。
このころの食べ物は、イモ・アワなどが主で、味噌や醤油はみんな自分で作っていた。
家は、天井が張ってなく冬などはとても寒く、吹雪いた夜には寝ている布団の上に雪が積もったほどであった。
また、熊が毎日のように家の傍までやって来た。
蛇や狐も多くいた。
屯田兵が開拓を始めてからは、この辺りの土地は、どんどん畑に変わり見違えるようになった。
残されていた屯田兵屋は、1993(平成5)年、深川市生きがい文化センターに移設され修復して保存されている。
屯田兵とは、農業をしながら国を守る兵隊のことである。
名前 |
深川市役所 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0164-26-2228 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.3 |
只今、深川市役所庁舎は建設中です。
今度、紹介するときは新庁舎を撮影しますのでお待ち下さい。