内地とは違う北海道の歴史に驚かされます。
バッタ塚はともかく近くに新川河口入口があるので駐車場をよく利用します。
なぜかたまにパトカーが来るんですよね。
史跡の一つとして知られています。
かつてこの地域でバッタの蝗害があり、それを埋めた地域として知られています。
札幌市の開拓時代、大量発生した殿様バッタに畑の作物がほぼ全滅した年があったそうです。
開拓時代の事ですから農作物がダメになったら冬をどう迎えるのか、その落胆と言ったら半端なかった事でしょう。
そのバッタや卵を集めて土に埋めたのがこのバッタ塚だそうです。
開拓時代って今現在から思うと、想像を絶する苦労の連続だったのでしょうね。
その先人達の苦労のおかげで、札幌市もこんなに快適な素晴らしい街になったのですからホントに感謝です🤠❣️
碑とベンチ以外は特に何もないですが、駐車場の右奥から川沿いの道に出られしばらく歩くと海岸に出られるので散歩や釣り、バードウォッチングなどで駐車場を利用するなら、人が少なく穴場的でいい場所だと思います。
郷土北海道の歴史として有名なのは、「蝗害」だろう。
開拓初期の明治13年から明治15年のバッタの被害は、吉永小百合主演の映画「北の零年」の通り、十勝より起こり、札幌にまで被害を広げている。
一度大発生した蝗害は、農作物はおろか、草原にも被害を拡大後、卵を地中に産みつけ、翌年にも大発生を繰り返して、更に被害を広げるものだった。
明治政府としても、軍を派遣して、大砲を使用したり、卵を不毛な砂地の土地に運び込み、25cm程砂をかけて、卵を死滅させるこの様なバッタ塚を、全道に作ったとの事である。
しかし、現在も所在がハッキリとしているのは、この手稲山口バッタ塚くらいである。
私も小学生の頃に、バス研修や親父の車で訪れた事がある。
因みに明治12年には、時計台が時計の無い状態で完成し、明治13年には、私の曽祖父が新発田より札幌へ移住して、この地で長男が生まれた年でもある。
碑があるだけですが、河畔を散策すると気持ちいい。
歴史を知る事ができます。
懐かしい場所です。
いつも清潔。
取り立てて面白いものがあるというわけではないですが、北海道もかつては蝗害に悩まされていたということを記憶にとどめておく上では重要な場所と言えます。
過ごしやすい場所として整備してくださっているのは本当にありがたいことです。
自販機はない(当たり前か)のと、駐車場の入り口が17時で閉まるので注意です。
ゴールデンウイーク頃、ここで桜を愛でながらお弁当を食べると、実にのんびりしたひとときを過ごせます。
新緑の中でヒバリのさえずりや水上バイクを楽しむ音が聞こえます。
正直、人はあまり来ません。
ポカポカ陽気なら車の中でお昼寝も悪くありません。
ただし、飛んでくる虫には要注意です。
(2020.4.20)
説明板より→飛蝗バッタ科の昆虫が郡飛して移動するもの。
広大な草原地帯で発生し、通過地域の農林作物は惨害を受ける。
生息密度が低いときは郡飛しないが、高密度になった世代では形態上・生理上にし著しい変化が起こって飛蝗化する。
広辞苑より農耕が広く行き渡る前の北海道にも、 何十年かおきに飛蝗が発生したことを、アイヌの人たちは語り継ぎましたが、記録に残っている限りでは、明治13年に十勝に発生して、日高、 胆振、 後志、 渡島、などへ広がり、同18年まで農作物などに被害を与え、開拓に着手したばかりの農家に深い絶望感を与えたトノサマバッタの飛蝗は、最大規模のものでした。
明治政府は開拓農家を励まし、また飛蝗が津軽海峡を越えて本州へ進入するのを防止するために、当時のお金で年約5万円を支出して、飛蝗の駆除に努めました。
当初はアメリカ、ヨーロッバ、中近東で行われた防除方法を参考にし、捕らえた幼虫成虫等は穴に埋め、土で覆ったバッタ塚を各地に数多く造らせましたが、現在ではほとんど残っていません。
ここに見られる幅広い畝状の塚は、効率よく工夫され、明治16年、主に札幌区の付近8km内外の地域で掘り集めた大量の卵のうを、不毛に近い砂地に列状に並べ、 各列の上にその両側の砂を厚さ25cmほどかけて、 造られたものと推定されます。
当初この様な畝は100条ほどありましたが、昭和42年にそれらの一部が東京拓地㈱から札幌市へ寄贈され、昭和53年8月21日に札幌市指定史跡となり、ここに保存されています。
内地とは違う北海道の歴史に驚かされます。
自然観察はここの駐車場が便利ですが時間が決まっているのでご注意。
そうなのか?と勉強になります。
20何年札幌に居たが知らなかった。
手入れされてる方に感謝です。
歴史の証人です。
よく潰されず残ったものです。
バッタの害を忘れないために、土地を拓いてくれた先人の偉業を忘れないために、碑があります。
他に特に何があるわけではないです。
昔に来たときは何もない所にバッタ塚の碑だけが建っていたのですが、キレイに整備されていて驚きました。
緑豊かで静寂に溢れた素晴らしい公園(史蹟)ですが、明治時代の蝗が農家に与えた甚大な被害を物語る生き証人でも。
畝畝が蝗の卵嚢を埋めた跡なんだそうです。
手稲山口バッタ塚をオイラの友達は、テイネヤマロバッタヅカと呼んだ(笑)
名前 |
手稲山口バッタ塚 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
011-211-2522 |
住所 |
〒006-0860 北海道札幌市手稲区手稲山口324−308 |
関連サイト |
http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/bunkazai/bunkazai/syousai/33c_batta.html |
評価 |
3.5 |
史跡の一つとして知られています。
かつてこの地域でバッタの蝗害があり、それを埋めた地域として知られています。
看板の記載によると、農耕が広く行き渡る前の北海道にも、何十年かおきに飛蝗が発生したことを、アイヌの人たちは語り継ぎましたが、記録に 残っている限りでは、明治13年に十勝に発生して、 日高、 胆振、 後志、 渡島、 などへ広がり、同18年まで農作物などに被害 を与え、開拓に着手したばかりの農家に深い絶望感を与えたトノサマバッタの飛蝗は、最大規模のものでした。
明治政府は開拓農家を励まし、 また飛蝗が津軽海峡を越えて本州へ進入するのを防止するために、 当時のお金で年約5万円を支出して、 飛煌の駆除に努めました。
当初はアメリカ、ヨーロッパ、中近東で行われた防除方法を参考にし捕らえた幼虫成虫等は穴に埋め、土で覆ったバッタ塚 を各地に数多く造らせましたが、現在ではほとんど残っていません。
ここに見られる幅広い畝状の塚は、 効率よく工夫され、明治16年、主に札幌区の付近8Km内外の地域で掘り集めた大量の卵のう を、不毛に近い砂地に列状に並べ、 各列の上にその両側の砂を厚さ25cmほどかけて、 造られたものと推定されます。
当初 この様な畝は100条ほどありましたが、 昭和42年にそれらの一部が東京拓地(株)から札幌市へ寄贈され、 昭和53年8月21日に 札幌市指定史跡となり、ここに保存されています。