足利尊氏との戦いに赴いた場所と伝わる。
枚方市の楠葉から自転車で訪れました。
駅跡には備え付けの専用駐輪場はなく、隣接のJR島本駅前の有料駐輪場(24時間で100円)に停めることにしました。
駅とは、奈良時代に都と地方をつなぐ幹線道路沿いに設置された、当時の重要な情報の伝達手段であった馬の休憩や馬の乗り換え用の場所として、国が設置した重要な施設であったそうです。
駅跡のそばには、現在も西国街道の古道が通過していて、当時の面影を彷彿とさせてくれます。
また、時代は下り、南北朝時代の建武の新政下、後醍醐天皇の命をうけ足利尊氏を討つべく湊川へ向かう、楠木正成が息子の正行と今生の別れを行った舞台でもあります。
個人的には、NHKオンデマンドで「太平記」を視ていた最中でしたので、感慨に浸ることができました。
当時の緊迫した雰囲気を掻き立てる、正成・正行親子の別れの様子を表した石像や楠木軍の旗を掲げたと伝わる杉の木のほか、正成を顕彰した多くの石碑が建っていました。
石碑の中には軍神と崇められたゆかりからなのでしょうか、近代日本における著名な軍人の乃木希典や東郷平八郎の書により仕上げられた石碑があります。
滞在時間は30分ほどであったと思います。
30分は少し長い時間かもしれませんが、石碑などを一つ一つみて廻ったり、古代の駅や南北朝動乱といった日本史を構成する貴重な舞台をしみじみと想像するのには充分な時間でした。
現在 当時の物は残っていませんが、歴史的には色んな事があり知ることが出来ました。
●【明治天皇】がこちらに来られた際の石碑や●【楠木正成】が戦で父親と別れた時に駒を止めた【木の破片(旗立松)】他には【西国街道】の詳細などなど有りました。
JR島本町の駅前にある小さな公園。
南北朝時代、京都から死を覚悟して神戸湊川の戦いに臨む楠木正成が息子の正行と最後の別れ「桜井の別れ」をした場所として有名。
明治天皇や陸海軍の乃木大将や東郷大将が記した碑が残っています。
そうか!駅って元々律令制で設置された幹線道路の施設の名前だったんだ!え, でもちょっと待って。
そうなると“道の駅” って, どういう意味の存在になってくる訳?... とか考えつつ, Wikipediaの“桜井駅跡”で,「すぐ隣にあるJR島本駅は, 結構最近の2008年の新設駅であること」「阪急京都線の水無瀬駅と上牧駅は, 当初それぞれ“桜井ノ駅駅” (サクライノエキエキ),“上牧桜井ノ駅駅” (カンマキ サクライノエキエキ)という名前で開業した」などの事実に触れ衝撃受けました。
エキエキエキエキ, ニン!ババーン🤔
▼「青葉茂れる桜井の~♪」と唱歌にもなっていた、この場所の有名な歌をご存知の方も多いと思います。
▼さて、鎌倉で中先代の乱を鎮めた足利尊氏 が、後醍醐天皇 を中心とする 建武の新政 に刃向かい、東海道を京に攻め上ってきました。
この時は 新田義貞や楠木正成ら鎌倉幕府を足利尊氏と一緒に倒したかつての仲間にうっちゃられ、今の兵庫の打出浜で足利尊氏軍は散々にやっつけられ、そのまま九州にまで落ち延びたのです。
▼ところが、尊氏はその九州で勢力を盛り返します。
そして再び京に攻め上ってくるのです。
▼この盛り返してきた尊氏と戦うことに深い危惧を覚えた武将がいます。
▼そう、楠木正成です。
▼かれは京に上り、後醍醐天皇に足利尊氏と和睦するよう諫言しますが、その献策をことごとく退けられてしまいます。
▼彼の献策は2つありました。
1つ目は足利尊氏と和睦するというもの、彼なりに人物分析をして足利尊氏は、後醍醐天皇の軍の大将である新田義貞よりはるかに人物が大きいと考えたようです。
▼もう1つは、京都の街自体を罠とするもの。
足利尊氏軍を京都の街に入れてしまい、後醍醐天皇は比叡山に逃れ、そこで持久戦をすれば京都はたちまち餓え、尊氏軍は兵糧攻めを受けたと同じ効果が出るというもの。
(正成の戦死後、戦況が不利になってからやっとこの献策が用いられます)▼献策が退けられた失意の中でも、正成は、新田義貞と合流し神戸の湊川に上陸してくる足利尊氏と戦おうと京から神戸へ向かいます。
▼その途中ここ桜井駅で、正成に同行していた息子正行(まさつら)に対し帰宅するよう諭します。
▼「お前はまだ11歳で幼い。
自分で判断した人生ではない。
父である私の価値観に左右されているだけだ。
今一度、河内の母の元に帰り、母を支えて自分の価値観が定まり行動できる歳になってから、自分の人生を歩んでほしい。
」▼正行は泣きながら父・正成について行きたい、一緒に戦いたいと言いますが正成は許さず、ここで泣く泣く正行は父・正成と別れ、河内・水分(みくまり)へと帰るのです。
▼自分の考えを子供に押し付けがちな我々にも、重要な示唆を与えてくれる場面だと思います。
JR島本駅から直ぐの所に立派な石碑が沢山建っている公園が有りました。
楠正成の由来の有るところだとか。
京都から大阪に行くために電車に乗って 車窓からここを見て気になっていました。
謎が解けました。
深く考えずにこの場所を訪れましたが、まずは戦前に賛美された史跡がこのように良好に保存されていることに驚きました。
大阪府や島本町の姿勢を率直に評価したいと思います。
次に驚いたのが、楠木正成のLOYALTY(忠誠心)を明治9年(1876)に当時の駐日英国公使ハリー・パークスが讃えた碑がこの場所でもっとも古いものだということです。
パークスは幕末の慶応元年から18年間も駐日英国公使を務めています。
また、東郷平八郎の揮毫による明治天皇の歌、そして近衛文麿による「滅私奉公」の文字などが、現実に存在した時代の空気を感じさせてくれます。
戦後教育を受け、司馬遼太郎を愛読した私のような者は、特に昭和の戦前、戦中を暗黒時代として封印しがちですが、「竜馬がゆく」の時代のハリー・パークスから「坂の上の雲」の時代の東郷平八郎、そして司馬遼太郎が小説化しなかった近衛文麿までの時代が連続していることがよくわかる場所であり、それぞれの生きた時代や各人の行跡などを等距離に置いて学ぶ必要があると考えさせられました。
2008年、当公園のすぐ脇にJR島本駅が開業した。
それまでは、阪急京都線水無瀬駅が最寄駅だった。
阪急水無瀬駅は、開業当時は新京阪電鉄「桜井ノ駅駅」として開業している。
よく知られている話ではあるが、奈良県にあるJR・近鉄桜井駅や、阪急箕面線の桜井駅とは関係ない。
楠木正成、正行父子の最期の別れの場所として知られている。
唱歌「桜井の訣別」にその場面が、「青葉しげれる 桜井の 里のわたりの 夕まぐれ…♪」とうたわれている。
楠木正成はここでの別れの後、神戸湊川の戦いで戦死した。
のちに楠木正行は四条畷の戦いで戦死した。
楠木正成が嫡子の政行と別れ、足利尊氏との戦いに赴いた場所と伝わる。
正成親子を顕彰する碑が幾つも建っている。
太平記の痛快で天才的な智将像がある一方、宋学という虚学のフィルターが掛けられた時代があったことも忘れてはならないだろう。
国に「滅私奉公」を強いられる時代が再度訪れませんように。
JR島本駅の目の前にあります。
通りを挟んで横には島本町立歴史文化資料館があり、この辺は島本町の見学スポットになっています。
公園は有名な楠木正茂親子の別れの桜井駅跡ということで石碑がいくつか立っています。
親子が別れを惜しむ像には「滅私奉公」の文字があり、書いたのは時の首相近衛文麿です。
立てられたのは昭和16年3月で、日中戦争が泥沼化し、米英相手の戦争も避けられないという時期です。
楠木正成は負けると分かっている戦いだからこそ我が子を置いて湊川へ一人向かったのです。
近衛さんの心境はどうだったのでしょうかね。
日曜日の公園はそんな石碑とは関係なく、イベント沢山で大いに盛り上がっていました。
*上記口コミ後1ヵ月以上経った本日(5月29日)久しぶりに通りかかると平日の公園はとても静かでした。
日曜日には撮れなかった写真追加します。
正成すでに討死すと聞きなば、天下はかならず将軍の代に成りぬと心うべし。
しかりといへども、一旦の身命を助からんために、多年の忠烈を失って降人に出づる事あるべからず。
【太平記】
桜井の別れで有名な桜井駅の跡地の公園で、園内には石碑がボンボンと立ってます。
そんな場所ですが、よく子供や子供連れがボール遊びをしているような、普通に地域の人に親しまれる小さな公園です。
名前 |
桜井駅跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
JR京都線島本駅東口の左方向にあり、木々が繁る公園になっています。
清掃が行き届いており、ベンチも置かれているので、近くの人たちの憩いの場になっています。
幼い子供連れのお母さんも見かけました。
桜井駅跡の「駅」は鉄道の駅のことではなく、大化改新以降、中央と地方の情報伝達のために幹線道路に約16kmごとに設置され、馬が配置されていた役所のことです。
ここ桜井は、京から西国へ向かう道筋にあった駅の一つです。
また、楠木正成父子ゆかりの地として、公園内にはたくさんの石碑や石像が建てられています。