函南駅を出て右側に少し行った斜面北条時政嫡男三郎宗...
北条宗時 狩野茂光の墓 / / .
さわやかウォーキングで、函南駅から伊豆仁田駅の「弥生から鎌倉までの歴史を感じる、新春のかんなみ散策」に参加しました。
函南駅から下り約500mのところに有ります。
鎌倉殿で有名になり、沢山のハイカーがいました。
「伝北条宗時の墓」で、地元の方々が守っているようです。
木が切られて丸坊主になってしまっています。
北条宗時と狩野茂光の墓です。
訪問した際、下の県道の工事で取付道路が無くなっていました。
1月下旬に再訪してみると、取り付け道路や階段はきれいに完成し、ベンチや案内板が更新されていました。
20200201訪問、JR熱海駅と三島駅の間、函南駅を出て右側に少し行った斜面北条時政嫡男三郎宗時と地方豪族狩野茂光の供養宝篋印塔が有ります。
やや大きい方が北条宗時公のものと説明有ります。
大分行った所に比企尼宝篋印塔、妙法華寺が有ります。
自分がどうやら狩野茂光氏の子孫にあたることがわかったので、3月初旬にお墓参りに行きました。
地元の皆様に大事に守って頂いて本当にありがたい限りです。
それからこの方の子孫は私だけでなく、全国にたくさんいらっしゃるはずなので、子孫の皆様、ぜひ一度お墓参りにいらしてください!
2つの供養塔に向かい合って、右手の少し大きい供養塔が「北条宗時」、左手が「工藤(狩野)茂光」の供養塔と云われています。
「北条宗時」は北条時政の嫡男で北条政子・北条義時の兄です。
石橋山の戦いで敗れ、逃亡中に早川の辺で伊東祐親の軍に包囲され、小平井久重に討ち取られたと伝わっています。
次に、「狩野茂光」は、伊豆国の牧之郷を領した当時最大の有力武将です。
狩野茂光も石橋山の戦いを源氏側として戦いますが、戦いで負傷し、歩けなくなったことから自害したと伝えられています。
伝説では、肥満だった茂光は、逃走の足手まといになるの嫌い、孫の田代信綱に介錯してもらったとも伝わっています。
実は、北条宗時を包囲した伊東祐親は、北条宗時の母の父親と云われており、北条宗時は「祖父」の伊東祐親に討たれたことになります。
祖父に討たれた北条宗時、孫に介錯された狩野茂光の供養塔が並ぶ様を見ると身内が故の無常さに言葉もありません。
北条時政の嫡男であった宗時公の墓は、函南駅から数百メートル歩いた右手にあります。
大河ドラマに向けてなのか、きれいに整備されていました。
北条宗時の墓は、JR函南駅近く大竹地区の高台に『宗時神社』として祀られ大小二つの墓石が在ります。
大きな墓石が北条宗時の墓で、北条宗時は北条時政の嫡男、北条政子の弟として生まれました。
源頼朝の平家打倒の挙兵に父と共に最初から従いましたが、石橋山の合戦に敗れた後、伊豆国北条荘へ逃れる途中、伊豆平井郷(函南町平井)の早川(冷川)付近で、伊東祐親の軍勢に包囲され平井郷の名主・小平井久重に討ち取られたと伝わっています。
吾妻鏡によると、鎌倉幕府が出来た暫く後の建仁2年(1202年)6月北条時政は、夢の御告げにより、当地を訪れ追悼供養を行ったと云われ、この時墓石や神社が造られたと思われます。
小さな墓石が狩野茂光の墓と云われています。
狩野茂光は、伊豆国最大の勢力を誇っていた工藤氏の嫡流で、おそらく石橋山の合戦で敗れ北条宗時と一緒か前後して函南迄たどり着いたところで、手傷を負っていた事から、孫の田代信綱に介錯させ自刃したのではないのかと思われます。
尾根の先端の小さな神社です。
木が切られて丸坊主になってしまっています。
北条宗時と狩野茂光の墓です。
訪問した際、下の県道の工事で取付道路が無くなっていました。
石橋山の戦いで敗走、死去 ♪治承四年八月二十四日 (1180年9月15日)
石橋山の戦いで源頼朝側で戦い戦死した北条宗時と狩野茂光の墓。
名前 |
北条宗時 狩野茂光の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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目立たない史跡ですが説明書見るととても興味深い内容でした。