上野の豪族の筆頭格だった長野氏。
伝箕輪城主長野業盛の墓 / / .
実は此処、通常の防犯活動でパトロールする「かみつけの里博物館」周辺の南西部に有ります。
何時も奇麗に清掃されており、一体誰が?と、気になってました。
が、遂に7月中旬に清掃をされている方と遭遇しました。
旧高崎市内にお住まいの方でした。
特に長野氏とは、関連は無いとの事でした。
現在でもこの様な奇特な方にお会いできて、嬉しかったです。
😸😸😸🐾
父の長野業正公は武田信玄の侵攻を何度も食い止めた名将で有名ですが、その後を継いだ業盛公の墓所と伝わります。
落城後、この地の民達によって葬られたとのことなので地元でも愛されたお殿様だったのでしょう。
伝箕輪城主長野業盛の墓長野氏は箕輪城を拠点に西群馬の武士団を統括した戦国武将です。
上杉氏側に組したため、武田信玄から度々攻撃を受けました。
永禄9(1566)年落城し、城主長野業盛(なりもり)は自害し、長野氏は滅びました。
自害した業盛を哀れんだ僧が遺体をもらいうけ、井出の地に葬ったとされています(箕輪軍記)。
上野の豪族の筆頭格だった長野氏。
父長野業正が有名で、武田信玄の上野侵略を何度も食い止めました。
その息子である業盛も父同様に武田軍に対して徹底抗戦を挑みますが、時流敵わずとうとう全滅、業盛も自害してしまいました。
某戦国時代ウォーシミュレーションゲームにおける長野業盛は、若くして武田軍の上野侵略を許したということで、能力的には控え目です(偉大な父との相対比較もあるのでしょう)が、実際は父に似て勇敢との評が残っているようです。
尚、甥の業実は上野領を拝した井伊直政に召し上げられ、そのまま井伊氏家臣となり、井伊彦根藩家老の家柄までになりました。
江戸時代の旗本や大名重臣にはこのような戦国時代の敗将の後裔達がゴロゴロいるんですって。
そんな子孫名簿(?)が見れたらちょっと壮観でしょうね。
お墓の脇を流れている井野川をずっと遡っていくと箕輪城にたどり着きます。
業盛の遺体は川沿い旧長野村のここまで運ばれて来たのでしょうか。
想像が膨らみます。
d(^-^)
箕輪城主だった長野業盛の墓と伝えられています。
大円寺にあったとされていますが、大円寺は今と比較にならないほど大きかったのでしょうか。
名前 |
伝箕輪城主長野業盛の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
〒370-0081, 井出町 高崎市 群馬県 370-3534 日本 |
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
群馬県を代表する戦国武将、長野業政。
その跡を継いで武田家と戦ったのが長野業盛。