庚申塔、馬頭観音などの石碑、石仏が設置されています...
高崎市指定史跡例幣使街道の常夜灯及び道しるべ所在地高崎市倉賀野町二二三〇指定昭和四十八年一月三十一日江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。
これを日光例幣使と言う。
例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野 で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今 市で日光道中に入った。
例幣使道(街道)は、一般 的に倉賀野から楡木までとされる。
この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅 館・著名人三百十二名の寄進者の名が刻まれており、 この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめ た雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など三十八名も含 まれている。
勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
常夜灯正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜鐙」裏面「文化十一年甲戌(一八一四)正月十四日高橋佳年女書総高三七三センチ 台石高 六七センチ灯籠屋根幅 一〇五センチ灯籠高 三〇五センチ道しるべ正面「從是右江戸道左日光道」 裏面「南無阿弥陀仏 亀涌水書」総高一七二・八センチ 台石高八・八センチ石柱幅一辺三十三・七センチ平成八年三月高崎市教育委員会。
旧中仙道が国道17号と合流する地点に在るので駐車スペースはありませんが、数人が留まるぐらいの広さはあるのでゆっくり観ることが出来ます。
常夜灯は神流川を渡るときの目標。
例幣使街道というのは、朝廷の遣い(例幣使)が日光東照宮の祭礼に向かうときに通る道で、倉賀野から五料を通って日光まで13の宿場が在ります。
時代劇では、例幣使の横暴な振る舞いが描かれていることがあります。
江戸時代の御公家さんは、経済力は無く、天皇を後ろ盾にした権威しか無かったですからね。
群馬県高崎市倉賀野町、JR高崎線/倉賀野駅南口から徒歩8分位にある「例幣使街道の常夜灯と道しるべ」に訪れました。
14時50分に訪れて他の観光客はいませんでしたのでゆっくり観光する事ができました。
「例幣使街道の常夜灯と道しるべ」日光東照宮の旧暦4月14日の大祭に幣帛(へいはく:神様に捧げるもの)を供するため京都から派遣された勅使が通るための街道のことです。
中山道と例幣使街道は倉賀野宿の東で分かれています。
この分岐点に石造りの『常夜灯』と『道しるべ』が建てられています。
常夜灯の基台4面にわたって各地の問屋、旅館、著名人312名の寄進者の名が刻まれています。
この著名人の中には長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五右衛門など38名の相撲関係者も含まれています。
健立は勧化簿という資料によると、上野国那波五科(現在の玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで健立したとあります。
※案内板の内容を簡略「感想」例幣使街道と旧中山道(中山道へ)との分岐点にある小さな場所となっています。
例幣使街道は、倉賀野宿から木崎宿、犬伏宿を経て楡木宿に続く92.2Km程の区間の道となっています。
ありがとうございました。
江戸時代物、大きい。
倉賀野駅から境町までを歩きました。
アップダウンもなく比較的歩き安いコースです。
玉村八幡、世良田東照宮など寄り道をしながら歩いても7時間程度でした。
日光例幣使街道(起点)と中山道の追分。
道標と常夜燈が現存している。
常夜燈は1814年(文化11年)の建立で、基部の正面に「日光道」、右面「中山道」と刻まれている。
道標は建立年代は定かではないが、中山道分間延絵図に道印として描かれているのはこの道標だと思われる。
文字は「従是右江戸道 左日光道」。
名前 |
「例幣使街道の常夜灯及びみちしるべ」の案内板 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.3 |
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閻魔堂(阿弥陀堂)の敷地内に「追分・常夜燈」と「従是 右江戸道 左日光道」と彫り込まれた道標、庚申塔、馬頭観音などの石碑、石仏が設置されています。
ここは、日光例幣使街道と中山道の追分であり、の日光に向かう朝廷の役人や中山道を応対する多くの旅人が何度も通過したようです。
ここから、日光も江戸も徒歩では遠く感じますね。