東西175mの城域をもちます。
御祭神 豊受命三ツ木城跡この城跡は南北150m、東西175mの城域をもちます。
北側に「本丸」、南側に「二の丸」、その左右に小さな曲輪が配されています。
本丸は鏑川によって形成された河岸段丘の崖上にあり、東西70m、南北60m程の大きさで、現在は豊受神社が祀られています。
この城は文明年間(1467~1487)に三ツ木信守が在城したと伝えられています。
城に接して鎌倉街道が南北に通過し、関東管領の居城であった平井城城域の北縁防御にあたった城であったといわれています。
(境内案内板より)「鎌倉街道」は、鎌倉から関東各地に延びる道路の総称で、建久三年(1192)に源頼朝が相模国・鎌倉に幕府を開いて以降、幕府と御家人の本拠地を結ぶ道として整備されました。
当初は「鎌倉往還」などと呼ばれていましたが、江戸時代になって中山道などの諸街道と区別するために鎌倉街道と呼ばれるようになりました。
江戸時代に整備された諸街道と異なり、道はほぼ消滅しているため、その道筋は古文書や伝承などによる推定の域を出ませんが、一方で、鎌倉街道と称する道路は現在も各地に存在しています。
(「自衛隊群馬地方協力本部ぐんま観光特使の群馬紀行」より)
元三ツ木城本丸内の神社(境内看板より)県道から入る道は細く暗くまるで堀の中を進むような感じですが、境内看板を見るとそんな感じのようですしかも、道は城郭に沿っていて旧鎌倉街道らしいです社は大きく境内には遊具もありました車で来る際は少し離れた畑道に停めるしかないようです。
名前 |
豊受神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
こちらの社がある場所は藤岡市三ツ木となっています。
ここは鏑川下流の段丘上にあって、鎌倉街道が川を渡る重要な場所でした。
ここに鎌倉時代の高山御厨(たかやまのみくりや)の貢ぎ物を扱う役所があったので貢ぎ(ミツギ)と呼ばれ、三ツ木あるいは三木と書かれていたようです。
また平井城を守る三ツ木城の見付(みつけ)がミツギに変わったという説もあるそうです(^_^ゞ