名にもあるように椿が出迎えてくれます。
桜は満開でしたが、椿は満開をちょっと過ぎて散り始めていました。
4月上旬よりは、桜が開花し始めた頃が椿の満開時期に重なり、もっと見ごたえがあったかも知れません。
いずれにせよ今回の4月5日の参拝は、満開の桜も、満開から散り花が地面を飾っている椿も、参拝に花を持たせてくれました。
椿杜神社(つばきもりじんじゃ)御祭神 豊受姫命由緒椿杜神社は、豊受姫命を主祭神として、本郷上郷(神明・波家田・道中郷)・川除・牛田の鎮守として祭っています。
豊受姫命は稲や穀物の神で、本社は伊勢の豊受大神宮にあります。
今から約九百年前、平安時代の天仁元年(1108)秋に浅間山が大爆発を起こして大量の火山灰を降らせ、上野国内の田畑が全滅状態になる大被害をうけました。
この災害から復興するため緑野郡高山郷の東にあたるこの地方は、神の加護も願って天承元年(1131)伊勢の国の伊勢神宮(皇大神宮 内宮、豊受大神宮 外宮)の神領となって、高山御厨と呼ばれました。
御厨というのは、伊勢神宮を祭る為の食料や布などを用意する御料地(荘園の一種)のことで、国税などは免除されます。
上野国内には九ヶ所ほどできましたが、高山御厨は最も早く、最も広い二百八十町歩もの水田があり、毎年四丈布の白布十反と雑用料として十反をそれぞれ二宮に納めていました。
そのため各地に伊勢神宮の分霊を祭る神明宮の社が建てられ、「神明様、大神様」と呼ばれて、その土地の祭場になり(供物を収納する倉庫にもなり)ました。
高山御厨は秩父氏系の高山、小林両氏が地頭職を分割して支配に当り、鎌倉時代には高山庄(荘園)に発展して緑野郡の平坦地の大部分が含まれるようになりました。
両氏共鎌倉幕府に仕える御家人となって活躍し、鎌倉街道も整備されました。
戦国時代の天正三年(1575)に、高山遠江守吉重が神田字神明に鎮座する豊受大神宮の社を再興し、光明寺に守らせ、高山氏は永く神社の鍵領かりをしていました。
江戸時代に東方の本郷字大神裏(現在地)に移転して、椿杜神社と名称を改めました。
明治二十二年(1889)に、近在の九つの里が合併した時、御厨の事故に因んで美九里村の名が付けられました。
明治四十二年(1909)には積木神社(牛田)、瓶酒神社(川除)、稲荷神社(波家田・道中郷・牛田)、琴平宮(波家田)、若宮八幡宮(牛田)、及び各末社九社等を合併し、祭神十一柱を併せ祭る村社となって、現在の形が整えられました。
神社の建物は本殿(神明造り・板倉様式・中に正殿)、幣殿(相の間・向拝)、拝殿が続き西側に合祀社、北側に末社石宮、南東に社務所・手水舎、南西に神楽殿、南参道に神明鳥居・石灯籠・石段、北参道にのぼり旗台などが配置されています。
境内はツバキ、カシ、スギ、ヒノキ、ウメ等が植林され、北に稚蚕飼育所の建物があります。
祭礼行事は、春祭りの四月には豊作祈願、秋祭りの十月(神嘗祭)夜は土器奉置式(モリコボシ)の神事が行われ、神穀を七十五膳の土器に盛って神前に供えます。
伝説「神明縁起」では、鎌倉時代の建久年間(1190~1198)に文覚上人が伊勢神宮を勧請されたと伝えています。
(境内「神社由来」碑より)「御厨の里」平安時代末には、武蔵国秩父出身の高山氏がこの地に居住していましたが、東国を支配した源義朝は天承元年(1131)に伊勢神宮に寄進してこの地に「高山御厨」(みくりや 荘園の一種)を成立させ、高山氏に管理を任せました。
藤岡市本郷の「椿杜神社」付近は「御厨の里」と呼ばれており、高山御厨の中心地だったと考えられています。
その後、高山氏は木曽義仲や源頼朝に従軍し、子孫の高山重栄は元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに参陣して武功を立て、新田十六騎に数えられました。
(自衛隊群馬地方協力本部「本部長の群馬紀行」より)
名前 |
椿杜神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
神明宮として創建。
現在地へ遷座する際に椿社神社と改名。