こんな近くに有名な古戦場があったなんて!
2023/03訪問。
交通量が溢れるのをおそれて、早朝5時頃に。
路駐せざるを得ません。
本多忠勝公が追ってくる武田軍を迎え撃った場所です!昔学校の劇で取り扱ったので思い入れがあります。
坂が非常に急で、止まる場所も限られているため見学するには危ない⚠️です。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八-武田軍・小杉左近」
立て看板と言うか標識だけが立つだけです。
歴史上重要な場所だと思うので、立ち入り禁止の部分も整理して入れるようにして、車も2台ほどでも停められるように駐車場も完備して頂けると個人的に嬉しいです。
元亀3年(1572年)、三箇野川の戦いで武田信玄に追われた徳川家康は、磐田市見付宿に火を放ちつつ浜松城に向かって敗走していましたが、ここ一言坂で追いつかれてしまいました。
しんがりを守った本多平八郎忠勝(※)の奮闘により家康が逃げ延びたとされていますが、武田軍の小杉左近は忠勝の活躍に敬意を表して見逃したとする説もあります。
ちなみに家康は今では近くにある智恩斉に移されている一言観音に助けられたと信じていたそうです。
※ 本多平八郎忠勝は徳川四天王のひとりで、天下三名槍「蜻蛉切」の使い手。
13歳の初陣から57回の合戦に参加してひとつも傷を負わなかったという戦国武将。
一言坂での活躍により信玄から「家康にはもったいない」と評されました。
その後の三方ヶ原の戦いでも、浜松城を目前にした犀が崖付近で、しんがりを守って討ち死にした本多肥後守忠真らに助けられ、家康は命からがら帰城しました。
2倍以上の兵力で家康を圧倒する信玄は浜松城を攻めず、このときも家康を取り逃すという轍を踏みました。
もしこの「二度の取り逃し」がなくて浜松城が落とされていたなら、浜松は武田氏の配下となり、諏訪原城や高天神城の戦いはなくなり、長篠の戦いは趨勢が変わり、関ヶ原の戦いすら起きなかったかも知れません。
ひいては徳川幕府の江戸時代も誕生せず、特に秀吉没後から現代に至る四百年以上の日本の歴史は、全く違ったものになっていたはずです。
「無数の要因の積み重ねが歴史を作る」という意味では、武田氏の「一言坂での家康取り逃し」は日本の歴史を変える大きな要因となったと私は考えています。
こんな近くに有名な古戦場があったなんて!20~30年前の日本史と比べると、日本人の日本史リテラシーは格段に高くなっている気がします。
東海道を西に向かう磐田台地からの降り口での戦いだったとのこと。
信憑性がありますね。
さらに、天竜川の渡場の位置まで東海道を通ると遠回りになるため、そのショートカット道があったなんて、実におもしろいです。
あと、ハンターには注意です⚠️
立て札や石碑が無ければなんてことのない道路ですが、古戦場好きにとってはたまらない場所です。
自動車では大した坂ではないですが、当時の敗走する徳川軍には相当苦労したに違いありません。
鉄砲を打ちかけられた平八郎を、なぜ武田小杉隊が捕まえなかったのか、よっぽど強かったのか。
やっぱりしんがりに情けをかけたんだろうなとか。
まだ蜻蛉切は持っていなかったのか。
いろいろと想像を掻き立てられます。
ちなみに平八郎はゲームではお馴染み無敵の本田忠勝です。
地図に戦闘の流れも記して説明したらもっと良いと思います。
武田氏による西上作戦の途上で起きた徳川氏との戦場跡。
初戦で敗退した徳川軍を武田軍が追撃、一言坂で交戦したが、徳川軍の殿を務めた本多忠勝の活躍により退却に成功した。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」の由来の地です。
石碑と案内のみで、遺構はありませんが、地形から当時の様子をしのぶことができます。
武田信玄の遠江侵攻に対して連戦連敗の家康。
三方原合戦の前哨戦だった袋井の木原畷で小競り合いから徳川軍が敗走、浜松に帰る途中に何度も武田勢の追撃を受けてしまいます。
ここの道は後々の姫街道であり、ある程度整備されていた道だと思われますが、やはり武田軍は騎馬隊だったのでしょうか、あっさり追い付かれます。
本多忠勝の活躍でなんとか逃げ切れましたが、そう考えると家康は必ずしも戦上手ではなかったのでしょうか?それでも天下を取るのですから、戦が全てではないということなのでしょう。
名前 |
一言坂古戦場跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
いわゆる徳川四天王の本多忠勝が武田軍に対し武勇を轟かせた古戦場です┉ですが、観光地でもなければ専用駐車場があるわけでもない、あくまでも 歴史好きが 想いを馳せる場所ですよ🙆