太田道灌公が中興した寺院。
高野山真言宗 光明山 東福寺 / / / .
御朱印は4種類対応されていました(うち、閻魔を頂きました)。
閻魔堂前の柱にお賽銭を入れると音がなります。
閻魔様の力強い御朱印を頂きました。
朱塗りの山門が特徴で、阿吽の仁王像が出迎えてくれる。
赤門の名で地元では知られ、この辺りの町名も赤門町だ。
境内は花が美しいので、檀家ではないけど年に数度は行くお気に入りの場所。
南区にこんな素敵なお寺があったなんて大発見でした。
浄財にお賽銭を入れるとキレイな音がなるんですよ。
コレまた素敵!この日は御住職が不在のため書置きの御朱印をいただいて来ました。
4種類あるのでまたお参りに伺おうと思います。
藤棚浦舟通りを歩いていたところ、立派な朱塗りの赤い門を発見。
お寺には珍しい赤門の両脇には仁王像が立っています。
本堂の手前には閻魔堂が有り、立派な閻魔様がいました。
内田いも屋の帰り道、伊勢佐木モールへと向かい、住宅地を沿うように狭い坂道を下っての動中、真っ赤な門に惹かれて拝観しました(*´ω`*)不動明王像の後ろに閻魔大王が配されているのを観たのは初めてです!!
閻魔堂にお参りしました。
お賽銭を入れると音がなります。
御朱印が4種類ありますが、3種類拝受しました。
法事前でお忙しいところ、丁寧に対応していただきました。
赤門で古くからあるお寺。
観光で訪れるようなお寺さんではないように思います。
御朱印は2種類いただきました。
小さくもきちんと手入れされ、非常に趣きがあります。
赤門の先は別世界という感じです。
交通の便もよく駐車場もありお参りしやすい。
境内もお墓も綺麗。
御朱印も達筆で立派。
鎌倉時代の天皇の勅願寺にして戦国時代関東最高の軍師、太田道灌公が中興した寺院。
高野山真言宗。
始まりは寛元元年(1243年)に後嵯峨天皇が鎮護国家を願い元心法印に開かせた勅願寺。
以前は更に大岡川(旧蒔田湾)寄りの海辺に存在した。
現在の関内~野毛~黄金町~吉野町~真金町~伊勢佐木長者町は江戸時代まで蒔田湾と言う入江だった。
現在の神奈川県庁~ニューグランドホテル辺りには横浜市の地名由来に成った「横浜」の半島が湾の入口を塞ぐ形で、丁度、東福寺の旧所在地辺りが湾の入口だったと思われる。
旧地の立地から海防や治水の願いを込めて勅願所に成った事が推測出来る。
東福寺が開かれた年にキプチャク・ハン国が中東に建国される等、田畑を食い荒らすイナゴの如くチンギス・ハンの侵略の“黄禍”が世界を恐怖のドン底に陥れていた時期で、後嵯峨天皇の御心痛と寺院建立に尽力したであろう鎌倉幕府の武士達の緊張が御寺の歴史からヒシヒシと伝わる。
御寺は後に荒廃していたのを、室町時代に築城の名手にして合戦無敗の名軍師だった太田道灌公により復興される。
復興されたと言う事は事実上は廃寺で、鎌倉幕府滅亡時に新田義貞がありとあらゆる神社仏閣で略奪放火の狼藉を働いていたので、その時に例に漏れず荒廃したのだろう。
近くに南太田駅等の地名に太田が残る地域は戦国時代初め頃に太田道灌公の領地だった歴史に由来する。
太田小学校が太田道灌公の城館跡と伝わるが、旧蒔田湾の対岸の蒔田地区、英和学院の有る丘には太田道灌公の親友で名称の蒔田吉良成高公の居城の蒔田御所が存在した。
東福寺の歴史は天皇家や名将達の歴史や世界史にも通じる感慨深い物語が有る。
東福寺は、その歴史から赤門の設置が許され今に、その伝統を伝え守る。
寺紋が徳川家より葵紋を許されている経緯等は現在の御住職様達には伝わっていないが、恐らく家康公の愛した側室の於梶の方(英勝院)様が道灌公の御子孫に当たるからだろう。
徳川家由来なる由緒正しき仏閣です。
閻魔閣なる社もあります。
梅が綺麗に咲いていました🎵御朱印いただくまでの間 るんくんU^ェ^Uにかまってもらいました🎵とても素敵で立派な御朱印です。
初めてお伺いしました。
閻魔堂があり、閻魔様を拝むことが出来たので平和を願い500円でお焚き上げ?のようなことをしてくれると言うのでお願いしました。
翌日 寝ている間に泥棒に入られて買ったばかりのバッグ1式を盗まれました。
他は大した被害は無さそうですが、カードを止めたり色々と、まぁそれはそれは色々と大変です。
閻魔様お願い、泥棒に厳しい裁きをお願いします。
閻魔堂がありました。
さくら🌸の季節、毎年さくら🌸を撮り、お花見もしてきます。
門をくぐるとよく手入れされた植木と美しい境内にしばし時を忘れます。
道をお聴きしましたら丁寧に教えてくれました❤
毎年境内の桜がきれいです。
url:tofukuji.jpのリンク先は京都の東福寺。
名前 |
高野山真言宗 光明山 東福寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
045-231-4094 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
北条早雲(伊勢宗瑞)と並称される戦国の雄・太田道灌ゆかりの寺だそうですが、あくまで伝承と考えてよいでしょう。
門前の赤門通りの南側に並行して走る藤棚浦舟通りに面して関東学院小中高が建つ丘陵があり、学院の正門前の東坂を上っていくと、南太田小学校があって、道灌の館跡と言われています。
江戸時代後期成立の「新編武蔵風土記稿」にも記述がありますから、地名が道灌に付会された歴史はけっこう古いようです。
作家・長谷川伸の墓もあるようで、興味がありますが未見。
彼の墓は品川区にもあるので、こちらは親族の墓でしょうか?長谷川の生家跡の碑はここから近い日ノ出町駅の東を流れる大岡川の川沿いにあります。
下の写真は閻魔堂。