麦の海に浮かぶ碓神社。
碓神社の特徴
麦の波間に浮かぶ小島のような、地域の鎮守の杜が魅力的です。
歴史の深さに圧倒される、静謐な雰囲気が心を癒やします。
碓神社の境内には、厳島神社や稲荷社など多様な文化が共存しています。
麦の黄金色の海に浮かぶ小島のようでした。
田んぼの真ん中に小さな森がポツンと有り、何があるのかなとたまたま行ってみたら社があり神社でした。
まわりには人家は無く静寂そのものでした。
とても静かで歴史も古く雰囲気もい良いです。
御朱印帳も書いていただけます。
駐車場もあります。
碓神社(大字沖之郷字三双作)御祭神 大日孁命 菅原道真公 速佐之男命境内神社 厳島神社(厳島姫命) 稲荷社(倉稲魂命)由緒勧請年暦不詳と雖該社辰の方に碓の形なる一箇の石、田中に在りて村民耕耘の障碍なりとて該社境内へ遷さんと庶民協力して掘らんとするに遽に震動雷雨するに依つて人々恐怖して去る。
故に碓の社神明宮と称するなり。
明治四十一年六月許可。
字保宿無格社菅原神社八坂神社を合併す。
(『休泊村誌』より抜粋)神社の40m程南東に、神社名の由来となった石があります。
注連縄が張られている訳でもなく、道の脇の田んぼの縁に置いてあるので、知らなければ神社の手水石がこんな離れたところにあると考えるくらいで、見逃しがちです。
碓神社の大石(休泊村)休泊村大字沖之郷碓神社社殿の東方十米程の水田中に經塔の臺石と思しく中央に穴を穿てる自然石あり、耕作の妨げなりとて、村人これをのぞかんとし、大勢集ひ來りて作業に著くや、暴風雨俄かに吹き來り天地暗澹豪雨降り注ぎ爲に天柱折れ地軸も覆へらん許りなり。
人々怖れ戰きて四散しこれより再びこの石に手を觸れんとするものなし、村人今も尚供へ物をして信心厚く、石底に積る雨水を皮膚病「いぼ」の妙薬なりとして珍重す。
(『山田郡誌』より抜粋)碓神社縁起略記この沖之郷は、今を去る六百九十六年前の弘安(1278)頃より暦応(1341)年間の頃、新田氏の臣中村三家の連衆達この地を卜し、中村三家を文字に集約して、「沖」之郷の地名を創り、その渕源をさせしと伝ふ。
当神社付近一帯は、古代遺跡にして、王朝時代における寺院の跡地なりと伝ふ。
碓神社は、文明年間(1469~1486)神明宮として創建せらると伝へられ、祭神に大日孁尊を齋き奉る。
伝に依れば、神社の辰の方に、古へより碓の形せる壱個の石あり。
田中在りて耕作の妨げをなすとして、神域内に遷さんと、里人協力しして堀出さんとするや、遽に天地震動雷鳴ありしため、人々驚き恐れて立ち去れり。
これよりこの石に、再び手を触れんとするものなし。
故に、その霊験灼かなる神威を表はし、その神徳の不朽をこの石に比擬すと言ふ。
而してこれまで神明宮と称し来りしも、古へより碓にまつわる霊験なる伝説により、村人いつしか、「うすさま」或ひは「からうすさま」と通称し、これより碓神社の正称を生むに至る。
(社殿内「縁起略記」より抜粋)また、「碓神社」と、神社より北西に直線で約1.2km離れたところにある「御霊神社」とに関連した言い伝えも残っています。
茂木の玉蜀黍と沖之郷の甘藷(休泊村)往古御霊神社(大字茂木)と碓神社(大字沖之郷)兩社の神仲違ひして、互に軍を催して雌雄を決せんとすることありき。
時に御霊の神利あらず、敗戰の色やうやく濃やかとなり玉蜀黍畑に身をひそめたりき、然るに不運にも玉蜀黍の葉に眼を傷け、碓の神も同じく甘藷の蔓に足をうばはれて思はぬ不覺をとれり。
爾來神慮を察して今日にいたるも茂木の人は玉蜀黍を作らず、又沖之郷に於いては甘藷を嫌ふと云ひ傳へらる。
(『山田郡誌』より抜粋)
名前 |
碓神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0276-62-3243 |
住所 |
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評価 |
3.6 |
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地域の鎮守の杜、碓神社。
どことなく懐かしい風景。
お祭りが行われるのであれば訪ねてみたい、そんな気持ちにさせる神社でした。