こちらは、源広綱の次男である景綱が、古戸九郎景綱と名乗って土着し、建立したものだそうです。
源広綱は、以仁王とともに平家討伐の兵を挙げた源三位頼政の末子で、義経に従い西国の合戦で軍功を上げた武者です。
その手柄により、上野下野に所領を賜ったといいます。
それよりも面白いのは、こちらの古戸という地名にまつわる話です。
新田義貞の孫である貞方は、亡き祖父の遺志を受け継ぎ、奥州に兵を挙げました。
徳川村の有親、子の親氏は、この戦に身を投じましたが、足利勢の為に敗れ去り、時宗の僧に身をやつして、ひそかに故郷である現在の古戸に帰り着きました。
その後、しばらくは隠れ住んでいましたが、足利方の捜索を恐れ、古い戸を一枚貰って、それに乗り、利根川の流れを下って旅に出たといいます。
放浪の僧となった父子は、それぞれ長阿弥、徳阿弥と名乗り、それから長い旅の果てに三河の国に行き着き、そこで徳川家の祖先となった…というお話です。
真偽はともかく、この逸話から祝人(はふと)という地名が古戸と改められたのだそうです。
さて真相は…(^_^;)
こちらは、源広綱の次男である景綱が、古戸九郎景綱と名乗って土着し、建立したものだそうです。
源広綱は、以仁王とともに平家討伐の兵を挙げた源三位頼政の末子で、義経に従い西国の合戦で軍功を上げた武者です。
その手柄により、上野下野に所領を賜ったといいます。
それよりも面白いのは、こちらの古戸という地名にまつわる話です。
新田義貞の孫である貞方は、亡き祖父の遺志を受け継ぎ、奥州に兵を挙げました。
徳川村の有親、子の親氏は、この戦に身を投じましたが、足利勢の為に敗れ去り、時宗の僧に身をやつして、ひそかに故郷である現在の古戸に帰り着きました。
その後、しばらくは隠れ住んでいましたが、足利方の捜索を恐れ、古い戸を一枚貰って、それに乗り、利根川の流れを下って旅に出たといいます。
放浪の僧となった父子は、それぞれ長阿弥、徳阿弥と名乗り、それから長い旅の果てに三河の国に行き着き、そこで徳川家の祖先となった…というお話です。
真偽はともかく、この逸話から祝人(はふと)という地名が古戸と改められたのだそうです。
さて真相は…(^_^;)
名前 |
長良神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.6 |
古戸町長良神社御祭神 藤原長良公長良神社社殿改築記念碑長良神社は藤原長良公を祭神とし利根川と共に生きた村人が水神として祭り喜びにつけ悲しみにつけ千年を超える長い間心のより所として今に至った産土の神です。
もとは利根川べりに鎮座ましましたが度重なる水害と耕地整理事業によって当時の氏子がそれぞれ応分の費を寄進し明治三十七年(1904)此の地に遷し参らせました。
(境内記念碑より)長良神社伝承「長良」または「長柄」神社は西は太田市の古戸長良神社、北は邑楽町の中野長良神社、東は板倉町の下五箇長良神社、南は埼玉県羽生市の本川俣長良神社など主として利根川流域に計三十社以上もあります。
藤原長良公がこの地で御祭神になった逸話は、館林市千代田町の民話として残っています。
「昔、赤岩には大きな沼があって、沼には主の大蛇が住みついて、毎年娘たちをさらって行きました。
困っていた村人達はその頃丁度都から桐生にきていた弓の名人・藤原長良という人に退治をお願いしました。
長良は村人達の話を聞くと早速赤岩に行き、自慢の弓矢で大蛇の眼を射、見事仕止めることに成功しました。
その大蛇の死体をさらわれた娘の数に合わせて十八に切って近隣の村々に分け、娘の冥福と長良の偉業をたたえる為、やがて千代田町の瀬戸井を中心に十八社の長良神社が鎮座するようになりました。
」(「ふるさとの民話 館林」参照)利根川流域に伝わる伝承でもあり、古くは最もおそれられたのが天災、洪水などで、おそらくは民話・伝承における「大蛇」は「洪水被害」と考えて良いのではないでしょうか。
(サイト「神社探訪 狛犬見聞録」参照)社殿右側に浅間神社石祠があります。
浅間神社脇に明治十六年(1883)「磐長姫神」と刻まれた小さな石碑もあります。
浅間神社石宮建設記念碑浅間神社は木花咲耶姫命を御祭神として明治十六年(1883)古戸象之鼻におまつりされた安産子育て防火の守護神として広く信仰されてきましたが昭和八年(1933)古戸川岸にうつされまた昭和三十九年(1964)長良神社の境内に遷座されました。
(境内記念碑より)太田市史によれば毎年八月には浅間様の火祭りが行われていました。
「火祭りの当日は、浅間講社の人たちが薪を持ち寄り、境内に山積みします。
まず、浅間様にろうそく(お灯明)をあげ、先達の人たちがおがみをあげてから、薪に火をつけて、オタキアゲをしました。
このとき、燃えくじを家に持ち帰り、これをイロリのそばにたてかけておくとか、屋根と庇、あるいは屋敷稲荷にあげておくと火難にあわないといいました。
また、浅間様におがみをあげたときのお灯明のろうそくをもらってきて、これをお産のときに点すと、このろうそくが燃えつきないうちに子供が生まれるといいました。
これは浅間様の祭神が、木花咲耶姫であるためといいます。
」(太田市史)(サイト「群馬県の富士塚を訪ねて」より)