神社の左側の公園名がいぬま公園です。
この地は元々犬間と呼ばれていて、神社の左側の公園名がいぬま公園です。
新田義重が京都から岩清水八幡宮を分社して一本の松を植えたので岩松となった。
新田氏のゆかりの歴史的な史跡。
周囲の田園風景が新田荘の歴史を連想させる。
駐車場は無いようです。
西側にいぬま公園があり、4台ぶんのスペースが有ります。
神社等によくある子供用遊具などは有りません。
2019/09/22 訪問。
妻の大病完治の祈願をさせて頂きました。
御祭神 誉田別命誉田別命(応神天皇)を祭神とするこの社は、市野井(新田町)の生品神社、鹿田(笠懸村)の赤城神社と共に新田の三社といわれ、明治五年栃木県(当時この地は栃木県に属した)において郷社に列せられました。
創建は仁安年中(1166~1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称しました。
以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたといいます。
八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀されました。
岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられます。
正木文書「新田庄田畠在家注文 嘉応二年(1170)目録」の中で「八幡のミやに二町五反」の除地の記載があり、これが一社のものであるかどうかについてはつまびらかでないが、応永十一年(1404)の村田郷地検目録には八幡神田が筆頭に記され、応永十七年(1410)の上今居郷地検目録八幡天神に起請(誓いをたてる)して作成されていることは、当時両郷とも岩松氏の支配地であったことから岩松八幡宮と見られます。
また、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により当八幡宮において元服し昌純と名乗ったとの記述も見られ、往昔この社の隆盛と庄内での崇敬のほどがうかがわれます。
なお境内には新田義貞を祭神とする摂社新田神社があります。
(境内案内板より)鳥居の手前に、岩を積み上げた塚のようなものの上に狛犬さんが座っています。
鳥居を潜った境内左手にあるのが「新田神社」と思われます。
八幡宮拝殿は朱に塗られた玉垣に囲まれています。
拝殿後ろの本殿は、拝殿と少し離れて独立していて本殿と拝殿の間に中門もあります。
拝殿から本殿周囲は透かし塀に囲まれています。
神社の西隣に「いぬま公園」が隣接しています。
昔はこの地域を「いぬまの郷」と呼びました。
範囲は明確ではないですが、岩松を中心に広い地域が、その中に含まれていたこともあったようです。
明治二十二年(1889)町村制が施行され、尾島町が誕生する以前の村々(現在の大字)の沿革などを書きあげた村誌によると、阿久津村、尾島村、岩松村、備前島村、押切村、堀口村、亀岡村などは、年代については明らかではないですが、昔は新田庄猪沼(犬間とも)の郷に属していたとしています。
上野国誌(安永三年・1773・毛呂権蔵書)によれば、岩松に八幡宮があり、新田義重が岩清水の八幡宮を勧請したもので、その時松の小苗を採って来て植えた、それからこの地を岩松と名付けたとあります。
また新田庄の初期の郷名を書きあげたと思われる、嘉応二年(1170)の目録を、享徳四年(1455)に筆写したとされる、新田庄田畠在家注文(正木文書)によれば、「いぬまの郷」と注記がしてあり、その後ゆわまつと呼ばれるようになったことが理解できます。
平安時代の末期か鎌倉時代初期のことと考えられます。
(公園説明板より)
名前 |
岩松八幡宮 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.6 |
どっしりした雰囲気でした。