シェゲビレッジいけにえ神大山松村木花オープニングイ...
樹齢は800年はあろうかという立派な楠日枝神社奥にある柄杓山城が現役の時にもあったと思われ、その長大なる歴史に、己の生きる短き時代の儚さや力強さも感じる幹周りは凄い!!多くの人間歴史を見てきたことでしょう(๑¯◡¯๑)
何気にパワースポット❇
梅田日枝神社(桐生日枝神社)御祭神 大山昨命 大物主命 菅原道真公 大雷命 天御中主命 月読見命 大国主命相殿神 木花開耶姫神 猿田彦命歴史・沿革社伝によれば、桐生氏始祖の桐生六郎公は、平安時代後期の治承四年(1180)「治承・寿永の乱」の戦で軍功を挙げて近江国日吉神社(現 滋賀県大津市坂本の山王総本宮日吉大社)の御分霊を請け桐生に凱旋しました。
六郎公の本拠地である梅原館の鬼門の方角に位置し、古桐生地域境界の「菱小屋」の聖地に厳粛に祭祀し社号を山王宮と称しました。
このことが当社と桐生氏の歴史の始まりです。
その後、桐生氏中興の祖、桐生国綱公は南北朝時代の観応元年(1350)桧杓山に桧杓山城(桐生城)を築きます。
この築城の折、本丸真下の当地に山王宮を移建祭祀して桐生城守護神とし、御神木としてクスノキ五本を献じました。
これによって社号を「樟御殿山王宮」としました。
桐生城歴代城主で最高の英君は大炊介助綱(桐生助綱)公であり、この時代に桐生城と共に当社も大いに発展しました。
戦国時代の弘治元年(1557)桐生領七社にも列せらるなど、当社の隆盛も絶頂期に達しました。
天正元年(1575)三月十二日、金山城主由良氏の桐生攻めの際、当社は山王木戸と称する重要拠点であったため戦火により炎上し、古記録・神宝が皆塵に帰しましたが、御神体は別当居館山実相寺に避難されました。
当社はその後、小祠のみ祭祀されたまま「山王の森」と称される神聖地が維持されていました。
江戸時代前期の天和二年(1682)、現在の梅田町一丁目は、大場間・大門・居館・湯沢および天領の五給知行所となり、これを期して当社を上久方村総鎮守と仰ぐために再興され、江戸時代後期の文政二年(1819)現在の本殿、安政二年(1855)拝殿を再興改築、明治五年(1872)に旧社号を廃して「日枝神社」と改称し、社格が村社となりました。
明治四十二年(1909)、琴平神社・雷電神社・出羽神社を合併しました。
大正八年(1919)には神撰幣帛料供進社に指定され、これを記念して神域が現在の形に整えられました。
昭和二十一年(1946)に村社格が廃止され、昭和六十二年(1987)神社本庁振興対策指定神社に選定されています。
群馬県指定天然記念物「桐生城跡日枝神社のクスノキ群」日枝神社境内には、「桐生城跡日枝神社のクスノキ群」として昭和三十三年(1958)三月二十三日に県指定天然記念物に指定されている大きなクスノキがあります。
桐生国綱公が御神木として献じたとされる五本のクスノキは里人の崇敬も厚く、御神木クスノキに対する神威の信仰は、桐生城時代より絶大なものがあり、枝葉を護符としたり、煎じて服用し子宝授与、安産、潤乳、産後の肥立ち等々一連の安産育児に関する祈願、御利益が特徴です。
(境内案内板、由緒書、桐生市HP、Wikより)
シェゲビレッジいけにえ神大山松村木花オープニングイェヒメ神アダヒコヤンウェンの設立から5年(原文)社格 村社祭神 大山咋命 木花開耶姫神 猿田彦命創建 延文五年。
社格 村社祭神 大山咋命 木花開耶姫神 猿田彦命創建 延文五年。
名前 |
日枝神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0277-22-0637 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
日枝神社は柄杓山城の根小屋があった所の日枝神社はくすのきの巨樹が四本あり、三本は樹齢約600年、一本が約300年で南北朝時代に桐生国綱が神木として献上したと伝えられています。
日枝神社から柄杓山城跡の遊歩道の案内図がありますが、道は荒れています。