ソメイヨシノよりちょっと早く咲く桜の木があります。
豊布都神社(御霊宮大明神) / / / .
ソメイヨシノよりちょっと早く咲く桜の木があります。
咲く時期になると近くの電気工事屋さんがライトをつけてくれます。
とてもキレイなので、是非見てもらいたいです。
御祭神 武甕槌命嘗ては御霊社と称し、鎌倉権五郎景政を祀っていたという。
慶安2年(1649)頃、荒川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたという。
鎌倉権五郎景政は16歳で「後三年の役」(1083-87)に源義家に従って出陣する。
このとき片目を射抜かれるながらも奮闘したことで知られる。
明治5年に神仏分離のため社号を豊布都神社と改称、祭神を武甕槌神に改めた。
地元の氏子さん達にとても大切にされている、清々しい気に満ちている、神社でした。
また行きたいですね。
名前 |
豊布都神社(御霊宮大明神) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
048-527-0885 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
豊布都神社(とよふつじんじゃ)御祭神 武甕槌命 鎌倉権五郎景政境内社 琴平神社 八幡神社 八坂神社 富士御嶽神社由緒上奈良村 御霊社村の鎮守にて 祭神は鎌倉権五郎景政なり社内に本地佛愛染を安ず慶安二年八月廿四日 當社領及別當寺(東光寺)領とも合て 十石の御朱印を附せらる鐘楼 正徳元年九月鋳造の鐘をかく末社 牛頭天王 八幡 稲荷 金毘羅(「新編武蔵風土記稿」参照)利根川と荒川のほぼ中間に位置する上奈良は、中世の奈良郷に属し、近世になり分村した所です。
地内には平安期の奈良館跡があります。
当神社は元来御霊社と号していました。
「風土記稿」には「御霊社 村の鎮守なり、社内に本地仏愛染を案ず、慶安二年(一六四九)八月廿四日、当社領及別当寺領とも合て十石の御朱印を附せらる」と載せられています。
創建の年代は明らかでないですが、その背景には嘗て地内に荒川の川筋があったことが挙げられます。
往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を、怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたことが推測されます。
ちなみに、当時の荒川は当神社と別当東光寺の間を横切る形で東西に流れ、そこには東光寺管理の「御霊の渡し」と呼ぶ渡船があったと伝えられています。
本殿には、像高30cmの座像が奉安されていて「権五郎尊像 元禄十二己卯天(1699)五月吉祥日 建立東光寺恵旭三十二歳」の墨書が見られます。
明治初年の神仏分離により本地の愛染明王は東光寺に移され、明治五年(1872)に御祭神を武甕槌命に改め、豊布都神社と改称しました。
豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われます。
なお、往時の朱印地については、東光寺に朱印状が現存しています。
(「埼玉の神社」参照)当神社創建の年代は不明ですが、江戸時代慶安二年(1649)に今の地に祀られたとあります。
「新編武蔵風土記」の幡羅郡上奈良の条に「御霊社」と呼ばれ村の鎮守とあり、今の向河原・並木・二ツ道・在家・石橋・小塚の地域となっています。
鎮座地は、向河原の西端にあり、往時地内には荒川が流れていて、その渡船場を村人は「御霊の渡し」と呼びました。
今でも御霊田・御霊橋の地名が残る地です。
御祭神は、神仏分離まで鎌倉権五郎景政で、本殿内に本地愛染を奉安していましたが、明治五年(1872)九月には、今の武甕槌神に改め、社名も豊布都神社と改称しています。
往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしました。
本殿は、一間社流れ造りで銅板葺きの屋根となっています。
本殿内には、元禄十二年(1699)に造られた「御霊之神」と墨書された神璽と共に、「武甕槌神」と書された神璽が奉安されています。
老朽化した本殿を始め、拝殿・幣殿を、昭和五十九年(1984)一月に再建すると共に、境内整備を終えました。
その後、平成十六年(2004)には、念願であった社務所兼地区集会場も清々しく新築を終えました。
(「境内案内板」参照)