映画関ヶ原で人気急上昇の島左近陣跡です。
三成には過ぎたるものが2つあると1つは佐和山城、もう1つは島清興。
その島左近の陣地跡です。
最高です!私は土の城巡りを趣味としてますが戦場も中々でした。
まして関ヶ原だしここで島左近が三成を守る為に奮戦した事を思うと胸が熱くなりましたね。
⭐️『三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城』‼️⭐️西軍/石田三成本陣展開する笹尾山⛰️山麓に布陣する石田三成/参謀、猛将「島左近清興」の陣跡🐎攻め寄せるは東軍武闘派の黒田長政隊、細川忠興隊、加藤嘉明隊や田中吉政隊など兵20000、石田勢7000と劣勢の中、島左近・蒲生備中の前衛が奮闘し大乱戦に、石田三成退避を確認し黒田長政隊に突撃、島左近は乱戦の中で散ったとも、生き延びたとの伝承も、島左近の亡骸が未確認の不思議⚔️
石田三成の陣地の手前にあり、決戦地からも近く雰囲気有ります。
秀吉が言ったとか「三成に過ぎたるものが二つある佐和山城と島左近」
『伝』島左近の陣跡。
左近は関ヶ原で討ち死にしたのだろうか?
島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。
筒井氏、石田三成の家臣。
通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて江戸からなかなか動けないはずの徳川家康の美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に勝利した。
しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、三成に受け入れられずに終わった。
関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立った。
正午過ぎ、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、左近は再び出陣。
正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、敵の銃撃により討ち死した。
関ヶ原合戦での戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせたことが『常山紀談』に記されている。
2020.12.10訪問駐車場より直ぐ目の前に階段を上がると陣跡が有ります。
笹尾山(ささおやま)だけは、山腹に竹矢来と馬防柵が再現されています。
直ぐ上には石田三成の陣跡が有ります。
馬防柵がある位で特になにもありませが、島左近好きは一度行ってみては。
三成の軍師で有り重臣の島左近の陣に行きました。
司馬遼太郎の関ヶ原を若い頃読み大好きなり実際にその場所に行けて感激です。
駅からは歩いて行ったので、汗だくになりながらでちょっと疲れましたが、行けて満足です。
まあ、訪れてみるだけの価値のある場所です。
真夏の時期に甲冑を着用してウロウロしている人がいましたね。
暑い中、ご苦労さまです。
石田三成陣の手前ですね。
柵を拵えて旗を立てて雰囲気は出ています。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い(徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とし毛利輝元を総大将とする反徳川勢力の「西軍」が関ヶ原現在の岐阜県不破郡関ケ原町,で激突した天下分け目の戦い)の際に島左近(天文91540,年 - 慶長51600,年。
左近は通称で、本名は清興きよおき,になります。
三成が自身の禄高の半分の2万石で召し抱え、「治部少石田三成,に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われた逸材です)が陣取った笹尾山の陣跡になります。
こちらには、合戦時に敵に対する防御として築かれた二重の竹矢来・馬防柵が復元されています。
島左近の忠義を感じます。
三成の陣跡手前に陣取る…様を…。
ちゃんと整備されていて…痛く感動しました。
石田三成の側近中の側近である島左近が、三成の陣のすぐ下側に陣を敷いた跡地です。
幟旗が立っているのですぐわかります。
山の中腹に巨大な馬防柵が前後二重に復元され、戦場であることを上手く演出していますね。
家康本陣を睨み付ける格好の場所だとわかります。
そこにはピッチャーマウンドみたいに少し盛り上がったところがあり、島左近に扮した武将が一緒に記念写真を撮ってくれます。
オレンジ色のベストを着たボランティア案内人の方がいて、シャッターを押してくれます。
車で来た場合、目の前にも駐車場がありますよ。
隣の小学校の跡地の草だらけの校庭も駐車場です。
当時を想像しながら見て歩く感じ。
眺めがいいで。
石田三成の軍師として有名な島左近勝猛の陣所です☺笹尾山の麓にあり、馬防柵が再現されています☺
石田三成の軍師島左近の陣跡。
馬防柵が特徴です。
映画関ヶ原で人気急上昇の島左近陣跡です。
三成の前衛隊長を努めた「鬼神の左近」こと島左近勝猛の陣跡。
笹尾山登道に二重の馬防柵が再現されているが、チョットした山城を見る思いだ。
三成&左近がこの地に着到した八月頃より、砦造りをしていたのかな?土塁を盛り上げ馬柵を廻らし、大筒まで据付けた火力陣地だったというのだ。
来たるべき東西大会戦に備えて ”Lady Go!!”九月十五日、この三成陣が加藤清正、細川忠興、加藤嘉明ら東軍の集中攻撃を受けてもビクともしなかったのは、左近の大活躍のお陰である。
然し、馬に跨り槍を振るって砦から討ち出た処を、黒田鉄炮隊に狙撃されたという。
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と評された。
名前 |
島左近陣跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
西軍総大将石田三成の配下、島左近の陣跡。
石田三成の前に布陣し、押し寄せる東軍相手に奮戦しました。