七本槍の中では家を保てた人の陣地跡。
入口から1分本当に近いです。
柿果樹園が周りにある。
彼も寝返りしたんだね…
ちょっとわかりづらく、車の停めにくいところにあります。
脇坂も裏切りでしたね。
場所も全て地味です!難易度は低いです!しかも地味!
七本槍の一人で徳川から小早川のお目付け役に派遣された、脇坂陣営場所。
山の麓にある。
路駐は高速道路のトンネルをくぐった先のところなら安心できると思います。
徒歩1分もかからない。
路駐で問題ない通行量です。
七本槍の中では家を保てた人の陣地跡。
場所がわかりにくい!道せますぎ。
戦国ロードに停めて歩くのが正解。
関ヶ原の脇坂家陣跡🌟🌟沼島暴動と水軍 古代の昔から、沼島水軍は大活躍してきたわけですが、豊臣秀吉が海賊禁止令を発布し、これにより沼島水軍も加子とならざるを得なくなりました。
しかし一方では、その後も密貿易船や密漁船相手に海賊まがいの荒稼ぎも横行していました。
秀吉の朝鮮出兵では、加藤・脇坂水軍の加子として従軍。
脇坂水軍が敗れかけた時には、水軍太鼓で志気を奮い立てるなど、沼島の海部屋一族は大活躍をしました。
脇坂水軍は、朝鮮の大将がひるんだ隙に逃げて、九死に一生を得ました。
脇坂は、無事帰還できたのは、沼島八幡宮の神霊の加護によるものとして、八幡神社に参拝し、金品を奉納。
神宮寺には枯山水の庭を寄進し、家紋の使用を許しました。
🌟🌟桃山式枯山水の庭 脇坂家家紋 神宮寺の瓦 その後、一国一城の令が出され、海賊衆はすべて、漁師、海商、百姓などの正業に就くよう命じられました。
しかも、ときすでに水軍として生活していく時代ではなくなっていました。
そのうちに、沼島水軍の大将である海部屋一族が2つの勢力に分裂し対立が起こりました。
一つは、海部屋の首領である海部屋半治の側、もう一方は大船頭である海部屋定吉(じょうきち)の側です。
半治側は、漁師と海商の道を選択しようと、定吉側は従来の水軍の道を選択しようとしました。
半治側には、 水軍の首領、船主、網元など顔役連中が、定吉側には軍(いくさ)加子の系列に属する連中がつきました。
その結果、沼島全体の決裂という形に発展しました。
渡海船の争奪では、力にまさる定吉側が沼島にある宝珠丸、大宝丸、沼島丸の3艘を手中にし、半治側は福良に碇泊(ていはく)していた第一海部丸だけとなりました。
双方とも、それぞれの船をめくら船仕立てにし大砲も搭載していました。
🌟🌟亀甲船 ある夜、半治は定吉が明朝出航するらしいことがわかりました。
その翌朝未明、定吉の3艘が由良の沖にさしかかったとき、島陰で待ち伏せしていた半治は、大砲の砲弾を宝珠丸に集中させました。
定吉は、3艘で海部丸を包囲し攻撃。
半治は、宝珠丸に体当たりしました。
その結果、両船とも積載していた火薬の爆発で木っ端みじんになり、半治も定吉も死んでしまいました。
生き残ったのは、双方合わせて17人だったそうです。
これが、沼島水軍の最後の姿となりました。
その後、沼島は蜂須賀氏の参勤交代の寄港地として、淡路一の加子数があり、その代償として広大な専用漁場を与えられ、漁業・回船業が発達しました。
そして、20年後。
新しい海部屋の首領、半治が漁業の船団を率いて沼島から出航しました。
この後の時代、海の豪商、海部屋一族の基礎を築いたこの半治は、定吉の子だと伝えられています。
小憎たらしいほどの世渡り上手っぷりに驚かされます。
『仁義なき戦い』の田中邦衛を見てるようです。
17年12月訪問。
賤ヶ岳七本槍の一人、合戦の終盤、小早川秀秋が東軍に寝返って大谷吉継に攻め混んだ際、一緒に寝返った武将。
いいイメージはない😁
石碑ある。
それ以上でもそれ以下でもない。
態態行くほどのところではないのはたしか。
賤ヶ岳7本槍の一人。
水軍のイメージが強い武将。
名前 |
脇坂安治陣跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
賤ヶ岳七本槍の1人、脇坂安治の陣地跡です。
最初は西軍に属していましたが小早川秀秋の寝返りに一転、脇坂安治、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱の4人も寝返り近くの大谷吉継、戸田重政、平塚為広の軍勢に攻めます。
戦後、脇坂安治は戦前に家康に寝返る事は伝えてあったので所領は安堵されましたが他の3人に関しては改易の憂き目に遭いました。