池も有る小さな公園になってます。
忠興公は豊臣恩顧の大名ではありますが、石田三成との確執のため徳川家康率いる東軍に味方する。
関ヶ原では黒田長政・竹中重門らとともに笹尾山の石田三成を攻め壊滅させる。
陣跡は小さな公園になっており、石碑と案内板が建てられてます。
駐車場やトイレはありません。
また近くの岡山狼煙場には黒田長政・竹中重門の陣跡があり、完全に笹尾山の三成様を攻める為の布陣がなってます。
恐るべし家康公😅
石碑その物は良かったですが…直ぐ左隣の遊具のある小さな遊び場が目に入り、興醒めでした。
小さな公園になっています。
特に時代を感じさせるものはありませんが各武将達の位置関係や動きなどを想いつつ散策してきました。
池も有る小さな公園になってます。
昔を思わせるものは無い。
路駐でも問題ない通行量なので路駐して拝みましょう。
関ケ原ウォーキングで最初のスタンプポイント。
福島正則陣跡とナビを使うとこちらが出てしまう、ちょっと残念な扱いをされていましたが、現在は解消されてます。
何でばれたんだろう?
樹齢800年の大杉が、福島正則陣跡に現存しており、この木の一部を加工した物が、お土産屋さんで売ってました。
Japanese/English細川忠興が率いた細川隊は、黒田隊とともに、笹尾山に布陣する石田隊との間で激闘を繰り広げました。
黒田隊は関ヶ原バイパスを挟んだ丸山に陣取って石田隊の島左近とぶつかり、細川隊は遮蔽のない平地のど真ん中に陣取りながら、石田隊の蒲生頼郷(配置からの推測です。
)とぶつかったようです。
山上に布陣する石田隊に正面からぶつかるあたり、戦国一気性が激しいと言われた忠興の猛々しさが感じられます。
忠興はこの戦いで相当奮戦したようですが、このように身を危険にさらしてまで戦ったのは、信長に反逆した明智光秀の娘婿、豊臣秀吉から切腹を命じられた千利休の高弟という、時の権力者から迫害を受けても不思議ではない立場にありながら、父幽斎譲りの才覚で難局を乗り越えてきた彼なりの計算力で、この戦いの後に徳川家の天下が訪れると考えていたからなのかもしれません。
ちなみに足利将軍家に仕えながら織田信長のもとで活躍した父幽斎は、東西両軍が関ヶ原に終結するまでの間、丹後田辺城に籠城して関ヶ原に向かう西軍を釘付けにするという戦略上重要な役割を果たしました。
細川家は、忠興や幽斎の活躍の甲斐あって、関ヶ原の戦いが終結した後に、豊前小倉に加増移封されましたが、この戦いで大きな犠牲を払ったようです。
大阪屋敷にいた忠興の妻ガラシャは西軍の襲撃を受け、屋敷に火を放たせ、家来に胸を突かせて亡くなりました。
忠興は、ガラシャとともに大阪屋敷にいた長男忠隆の妻が親類を頼って西軍の宇喜田屋敷に身を寄せたことを咎め、関ヶ原の戦いの後に忠隆を廃嫡にします。
徳川家の不興を買うことを避けるためであったとも言われます。
様々な苦難を乗り越えた細川家は、忠興の三男忠利の代で肥後熊本に加増移封され、明治に至りました。
The Hosokawa Corps, led by Hosokawa Tadaoki, engaged in a fierce battle with the Kuroda Corps, with the Ishida Corps, who were stationed at Mt. The Kuroda Corps fought in Maruyama across the Sekigahara bypass and collided with the island Sakon of the Ishida Corps, while the Hosokawa Corps fought in the middle of an unshielded flatland, but clashed with Ishida Corps's Kiryu Yorigo (inferred from placement). It looks like When I hit the head of the Ishida Corps, who is located on Yamakami, I can feel the ferocity of Tadaoki, who was said to be fierce in the warring world.It seems that Tadaoki has struggled a great deal in this battle, but it is said that he fought in danger in this way because he was a high brother of Senrikyu who was ordered to be angry by Toyotomi Hideyoshi, the daughter of Akechi Mitsuhide who rebelled against Nobunaga. Because while thinking that it is not strange to be persecuted by the authority of the time, with his own calculation power which has overcome the difficult situation with the wisdom of the father Yu-sai, I thought that the Tokugawa family will come after this battle It may be.By the way, his father Yu-sai who worked under Nobunaga Oda while serving the Ashikaga Shogunate family is strategically to nail the west army heading for Sekigahara in Ibaraki Castle to Tango Tanabe Castle until the East and West forces end to Sekigahara. Played an important role.The Hosokawa family was added to Buzen Kokura after the end of the Sekigahara battle, thanks to the success of Tadaoki and Yusai, but it seems to have made a great sacrifice in this battle. Tadaoki's wife, Garasha, who was in the Osaka residence, was attacked by the West Army, and let the residence fire and leave the house to death.Tadaoki confessed that his wife, the son of Tadataka, who was in Osaka at the same time as Garasha, relied on relatives and came to Ukitanoshiki in the West Army, and made Tadahiro ruined after the Sekigahara battle. It is also said that it was to avoid buying the Tokugawa family's misery.The Hosokawa family, who overcame various hardships, was added to Higo Kumamoto in the age of Tadaoki's third son Tadatoshi, and reached the Meiji era.
古戦場を想像できるものは案内と碑文だけです。
私が、この地域の自治会長をやらせて頂いております、年間3回、5月、7月、11月、自治会員の協力により除草、藤の剪定、桜の木テングス病の枝伐採に、励んでいます。
4月に、桜🌸のシーズンになれば、19時~21時迄ライトアップして、夜桜も楽しめるよう待ってます是非とも、一度来て頂ければ、幸いです。
妻である細川ガラシャが大坂屋敷にて人質になるのを拒み自刃、石田三成に対して戦意を燃やし激しい攻防を展開☺
この陣跡は他の武将とは違いこぎれいな公園内にあります。
ガラシャの死を乗り越え、この地に立った忠興は、何を思っただろうか。
公園の一角にあります。
名前 |
細川忠興陣跡 |
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ジャンル |
|
住所 |
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原811−104 |
関連サイト | |
評価 |
3.6 |
やや窪地になった陣跡です。
敵本陣の笹尾山から見下ろされる位置関係になります。