名前 |
岩手弾正居館跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
地域住民が立ち上がる時岩手(いわで)氏は清和源氏の流れをくむ美濃国不破郡漆原に興った豪族。
室町時代初期から、守護土岐氏に属し、西美濃六千貫を領した。
頼重・重朝・重久・信忠・信久・信冬(長誠)と6代つづいて、弾正忠か遠江守の官名を称している。
弘治2年(1556)岩手信久は、斉藤道三に属して長良川合戦に討死。
信冬は2年後、大野郡大御堂の竹中重元(半兵衛の父)に城を追われた。
この年代については異説があるが、一等史料であるところの「岩崎神社実棟札」をもって完全に否定されている。
また、伊富岐神社に岩手氏が奉納したとされる鎧には武田家の花菱紋と割菱紋がついている。
岩手氏の紋は源氏笹、あるいは桔梗花とされていたがこれはどう解釈すべきだろう? 岩手家の4代目以降は「信」の字を通字としている点から、武田氏が養子に入ったという考えが産まれる。
「武田系図」に岩手を甲州の地名としている点は考え直す必要があるだろう。
系図上、重元の父・竹中重氏は岩手信忠(竹中信忠)の弟あつかいであるが、竹中家こそが岩手家の正当な血筋でなく(従兄弟であったと言われる)そういえば、重元は遠江守を名乗っているし、竹中家では初代頼重の幼名(源介)を大切にしている。
近郷の市橋氏も武田家から婿養子を迎えているし、岐阜の僧(快川)や不破矢足の弟(不破太郎兵衛)が武田信玄に仕えてもいる。
美濃の不破家の一族には、土佐藩主の山内一豊の正室の遠藤千代(不破千代👈叔父の養女に成った)が居る。