亡き母が日赤看護婦として この碑の作業(引き揚げ船...
浦賀駅から久里浜方向に歩いて行くと浦賀病院が見えてきます。
その浦賀病院の右手にこの引揚者記念の碑が見えてきます。
ここから多くの人々が終戦後に海外から引き揚げて帰国しました。
多くの方々の苦労を思うと身の引き締まる思いがします。
さすがかつての日本を代表する軍都の一つであった横須賀市は、戦争に関する記念碑が数多くあります。
また横須賀市は、このような戦争史跡などを積極的に保護して観光地化を図っており非常に好感が持てます。
さらなる保護活動に期待しています。
ここから更に久里浜方向に歩いて行くとトンネルがありますがそのトンネルを通ると水雷学校跡地があります。
トンネルを通らず左に曲がり 老人ホーム「太陽の家」の前を道なりに進み急斜面を登ると千代ヶ崎砲台跡があります。
横須賀市が建てた碑文があります。
太平洋戦争終了後、中国や南方からの引揚者約56万人が上陸●8月_浦賀みなと祭。
17時~関東大震災慰霊塔前で、関東大震災受難者慰霊法要。
1730~浦賀引揚記念の碑前で、水難者/引揚船戦病死者/戦争犠牲者の慰霊法要。
18~1830奉納舞。
1930~20湾上の船から花火500発。
対岸の東叶神社では、1730~1930線香花火選手権大会(トーナメント方式で、火玉の長さを競う。
参加費100円)
浦賀港では第二次世界対戦後、引き揚げ指定港として中部太平洋、南方、中国大陸から56万人を受け入れました。
太平洋側で最大だったそうです。
ところが昭和21年に引き揚げ船にコレラが発生、コレラが発生した船は浦賀に集められ、久里浜には検疫所が設けられました。
そしてコレラが広まらないよう防疫作戦が行われました。
多くの方が祖国を目の前にして船の中や病院で亡くなってしまうという悲劇がありました。
どれだけ無念だったでしょう。
この碑は平成18年2006年に平和の願いを込めて建立されました。
ここに来てこの碑を目にするまでコレラの悲劇は全く知らず、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
戦後に外国にいた日本人を引きあげた時の上陸地だそうです。
ここに戦争が終わり、戦場から帰ってきた人達はここから故郷に向かいました。
記念碑です。
名前 |
浦賀港引揚記念の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
亡き母が日赤看護婦として この碑の作業(引き揚げ船 コレラ防疫)に従事しておりました。
所員一団 奮闘の結果 一人のコレラ患者も日本に生まなかったこと、後に占領軍将校から厚生相宛に感謝状も贈られた。
遺品の中に一部ですが、当時の状況を再確認できる写真がありましたので忘備にUPします。
写真の写真ですので少し不鮮明ですが。
広大な検疫施設は、少し南側 今の刑務所、少年院のあたりにあったようです。