桃陵団地の入り口付近にある史跡。
真田戦記伏見奉行所跡・他伏見奉行所は,慶長5(1600)年に創設されましたが,実際は寛文6(1666)年に、水野石見守忠貞が伏見支配に専念するようになったのを最初とします。
与力10騎,同心50人が属し,伏見市街と周辺8カ村(享保以降9カ村)を支配しました。
慶応3(1867)年廃止。
慶応4(1868)年正月3日の鳥羽伏見の戦い、では,幕府軍は会津藩(新選組含む)を主とした1500人が伏見奉行所等に入り,御香宮に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙しました。
激しい戦いとなり伏見奉行所は灰燼に帰しました。
この石標は伏見奉行所の跡を示すものです。
桃陵団地の入り口付近にある史跡。
ただの団地になってます。
今は石碑だけの史跡。
鳥羽伏見の戦いで御香宮神社に薩摩藩が設置した大砲の砲撃を受けて焼失したらしい。
その後、明治期には陸軍工兵第十六大隊になった為に、ついでにその石碑も側にある。
今や昔、鳥羽伏見の戦いで奉行所は壊滅しましたが、東西など奉行町と名残りの町名が今も残っています。
団地群も気を使った建物ですね!
自分の思い出を記録するために、口コミを入れてます。
10年ほど前に京都散策中に、見つけました。
幕末時代の伏見奉行所跡。
歴史的な場所です。
江戸時代には、重要な役所だったのだろうと思われます。
今は団地になっている。
酒蔵の街だけあって何となく雰囲気が秩父のようでした。
もっともこちらは元都ですか。
京阪鉄道と秩父鉄道はともに渋沢栄一が関わっているので多少は共通するところはあるかもしれません。
御香宮神社から徒歩できました。
この距離感で官軍と幕府軍が対峙していたとは…。
伏見奉行所の跡地、数少ない幕末の動乱を感じる事の出来る場所だと思います、近くを散策すると石垣を見る事ができ奉行所の敷地が広大だった事がわかる、また薩摩藩が陣を構えた御香宮が意外と近いと解る。
現在は市営住宅になっていますが、塀などを奉行所っぽい感じに整備してるのが良いですね。
慶應4年(1868年)正月3日の鳥羽伏見の役で、会津藩兵、新撰組隊士たち幕府側は伏見奉行所を拠点にしましたが、御香宮神社から大砲による砲弾が撃ち込まれて奉行所は炎上、幕府側は壊乱し撤退していきました。
新撰組などが陣を張った伏見城跡。
寺田屋に居た坂本龍馬の捕り方は夜ここから出発したんだろうな。
龍馬に鉄砲で撃たれて死んだ2人の捕り方はこの近所の方だったのだろうか?
現在は団地になっています。
明治維新後は陸軍の土木建築を担う工兵部隊が駐屯していました。
その中で第十六工兵はフィリピンのレイテ島で玉砕しています。
写真は彼等がいたことを証明する石碑です。
なかなか雰囲気がいいお店も沢山有って食べ歩きにわ勝てないね。
何も残っていないです。
付近の通りに街道・近世都市らしい家屋が残っています。
どこでもそうですが、ここも石碑が建つのみです。
なかなかかつての栄光を偲ばせるのは難しい。
「大政奉還150年幕末維新を歩こう」
官軍が本陣を置いた御香宮から、この奉行所に放たれた大砲を皮切りに戦いが始まった。
新撰組もこの奉行所に陣を構えたのだろう。
いまは団地の入口に石碑があるのみです。
歴史好きには隠れた場所ではないでしょうか?
鳥羽伏見の戦いで大砲の攻撃により焼失した伏見奉行所跡です。
石碑が立つのみですが、この地に立ってみると、薩摩が陣地を敷いた御香宮神社と道一本隔てたところにあったということを実感できます。
名前 |
伏見奉行所跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu038.html |
評価 |
3.5 |
周辺のオススメ
![](./loading.gif)
鳥羽伏見の戦いと総称される一連の戦闘のうちのひとつ伏見の戦いの現場です幕府軍と新撰組の陣地です薩長の新政府軍の布陣する御香宮神社からは、わずか300メートル薩摩の砲兵隊の高台の陣地からは500メートル程度しかありません至近距離で見下ろす形ですから、砲撃は面白いように命中したと思われます新撰組の斬り込みはこの伏見奉行所から大手筋の坂を上る形で行うことになり、高地からの銃撃と砲撃を受けての突撃になりますから、悲惨な状況になるのは当たり前だと肌で分かります戦闘は夜になって伏見奉行所の弾薬庫に直撃弾を受け大火災となったため、幕府軍と新撰組は伏見奉行所を捨て中書島方面へ敗走したそうですここから西に徒歩10分のところに、京橋という京都への水運の玄関口の橋があります伏見の町を焼き払いながら、この橋を越えて敗走していったため伏見の街の南半分は焼け野原になったそうです京橋の東詰には「伏見の戦い激戦」の碑がありますその途中、近鉄のガードをくぐってすぐ右手に「鳥羽伏見の戦い弾痕」がありますからお見逃しなく明治維新後は、太平洋戦争の終戦まで陸軍の駐屯地となり、その碑が道の向かい側にあります今は団地の入口のとなっています。