石山本願寺を偲ばせる、スポットです。
蓮如上人袈裟懸けの松 / / .
石山本願寺を偲ばせる、スポットです。
本願寺第8代蓮如上人は明応5年9月此の地を選んで一宇の坊舎を建立し明応8年2月迄居住する、天文元年8月第10代証如上人は山科より本願寺を此の地に移し大阪石山本願寺と称す、ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した、永禄.~年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議成る、天正11年豊臣秀吉大阪城を築く後時代は代われども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。
梅林の上辺り、この辺りに本願寺が建立されていたという場所の跡地がひっそりと存在します。
蓮如上人が袈裟をかけたと言われる松の木の根っこが残っているとされています。
しかしながら、秀吉により盛り土されているため、露出している松の木の根っこは別物だとの話しだそうです…🌲南無阿弥陀と彫られた立派な石碑が立っています…🙏
南無阿弥陀仏の石柱は蓮如上人を偲んで手を合わせちゃうなぁー。
この場所も数えキレない程行きました、信長が、末の松山と言う石一つ渡して、本願寺を立ち退かせたそうで、凄い話し凄い権力、凄い石ですね、ちなみに、末の松山の石、図書館の石の図鑑で、見ました私には、石です何の変哲も無い石でした、😀
普通の史跡かな。
石山本願寺があったことを物語る。
蓮如上人書跡の六字名号碑がありました。
歴史を感じた。
北側からかなりの高低差がある。
2019.3.2 大阪城梅林近くに位置し、観光バスや乗用車でお越しの来園者が、大阪城天守閣へ行く際には必ず通過するスポットです…。
観光地化されてますが…外国人観光客はもとより、日本人観光客にも目に止まる方は少ない様です。
豊臣秀吉が大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊社をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。
切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎない、と考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。
-----------------------------------------------------------------------------------------------本願寺第八代蓮如上人は明応五年九月、この地を選んで一宇の坊舎を建立し、明応八年まで居住す。
天文元年八月第十代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称す。
ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。
永禄十三年(元亀元年)、織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。
而して十一年間攻防の末、天正八年三月、勅によって和議なる。
天正十一年、豊臣秀吉大坂城を築く。
のち時代は変われども、蓮如上人袈裟懸けの松の根のみが残り僅かに往昔を偲ぶ。
本願寺津村別院誌(抜粋)------------------------------------------------------------------------------------------------------
豊臣秀吉が大坂城を築城する前、上町台地最北端のこの地に本願寺八世蓮如上人によって創始された大阪本願寺があったことは周知の事実である。
本願寺時代の末期には織田信長が十年の歳月をかけても攻めあぐねたというだけあってよほど巨大な要害となっていたらしく、秀吉時代の本丸は本願寺時代の石垣、堀の多くを転用したものとする説さえあるほどだ。
その後の複雑な歴史も相まって当時の遺構は何一つ残ってはいないのが実情だが、(伝承上のこととは言え)今の大阪城内で唯一、蓮如上人にゆかりがあるとされるのが、この石碑裏に残る松の根なのである。
野良にゃんこが出迎えてくれますがすぐに逃げてしまいます。
古い切り株に、歴史的価値があります。
大阪城に来たら此処に寄らないと意味がないよ。
名前 |
蓮如上人袈裟懸けの松 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
06-6755-4146 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
こんなところにあるとは知りませんでした、歩いてるとやはりいいですね。