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明治維新間もないころ、新政府の方針をめぐり混迷をきわめた。
体制を固めようとする大久保利通(としみち)は、当時反対を唱え下野していた木戸孝允(たかよし)や板垣退助を引き入れるため、伊藤博文・井上馨(かおる)らとともに、明治8年大阪で会合した。
紆余曲折(うよきょくせつ)を経た会議は1カ月にも及び、ついに2月11日孝允の常宿、花外(かがい)楼(加賀伊を孝允が改称させた)で妥協した。
これを称して大阪会議というが、ここでの話し合いも長つづきせず、6カ月後には再び混迷度を増したが、この会議は立憲政体を宣言した意義あるものであった。
明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。
名前 |
大阪会議開催の地 |
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3.5 |
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