閑静な住宅地の中にある八幡宮です。
閑静な住宅地の中にある八幡宮です。
鳥居をくぐると左手に平和を祈念する石碑と正面に大きな銀杏の木が目につきます。
静かな社で心が落ち着きます😊
コロナで鈴を外してました。
訪れまず目を引くのは大きな砲弾と大銀杏の木。
他の神社にも日露戦争の記念碑はあるがこれほどのものはここだけだろう。
神社は他に飾り気はないが、このふたつ、砲弾の列と大銀杏の木だけが記憶に残る。
それと寛永元年(1624年)に寄進された鳥居。
将軍家光のころである。
家の氏神様‼️ご利益大有り‼️
自分が住んでいる地域の神社です。
子供時代の遊び場でした。
古いお八幡さんのようです。
自転車で通りすがりに撮影しました。
地元の方も初詣されるところです。
この河内国稲田村のことは、古文書にも記述されています。
『二條宴乗記』の元亀元年(1570)9月8日の記述に、(河内国)稲田へ舟にて参り。
稲田寺内古橋合戦に焼け。
残る家松永山城守久秀衆陣取り、皆々取り破る。
屋根など無きの間、ミをかづき一夜を明し、とあります。
宴乗は、奈良興福寺一乗院門跡坊官の二條宴乗のことで、この時、幕府・織田信長方松永山城守久秀に加担しており、一行は、摂津国中嶋(今の中之島)方面へ向かう途中に稲田村へ宿営しました。
記述では、稲田村も合戦の被害を受け、家々が焼けていたようです。
焼け残った家も、松永方の軍勢によって、焚き付けにでもするのか、家の部材は引き剥がされ、屋根が無かったと記録しています。
記録の日付は旧暦ですので、今の西暦より40日程季節感覚が遅いので、現在の暦で言うと10月下旬で、初冬にも近い自然環境です。
朝晩は寒いはずですので、こういう事が起きたのでしょう。
また、稲田村は本願寺宗派の影響力の強い地域でした。
前記の記述にある「稲田寺内」とはそれを指すのでしょう。
この記録の直後の9月13日、本願寺宗が幕府・織田信長方へ敵対を表明し、一斉蜂起して後は、一転して敵対関係になります。
今も稲田村に残る正行寺や存空寺は、そういった流れを汲むかもしれません。
曲がりくねった道や鍵型の道、道幅などは、旧態の名残りとも思え、ワクワクします。
土地の起伏も当時とあまり変わらないのでしょう。
もちろんこの八幡宮もその当時から確実にあったはずで、きっと松永久秀などの武将も八幡宮とあっては、武士ならば、きっと参宮したと思われます。
歴史有る境内。
大銀杏は環境省の指定木。
大クスノキは東大阪市の指定木。
砲弾は、明治時代。
そして、稲田桃。
地域のシンボルがここにはあります。
【稲田八幡神社】(いなだはちまんじんじゃ)東大阪市大阪府東大阪市稲田本町の住宅地に【稲田八幡神社】(いなだはちまんじんじゃ)は鎮座しています。
境内の東大阪市の案内板によると、御祭神:「仲哀天皇」、「神宮皇后」、「応神天皇」。
祭礼日:宵宮10月21日、本祭り22日。
由緒について;「稲田桃」で知られている稲田の地は、古くは新開池へ合流していた旧蔆江川の両岸に営まれた集落で、「稲田村由来記」によれば、室町時代の中頃、東方に屋敷割と呼ばれる所があり、観音樋の西側に人家が18軒あったこと、誉田八幡宮を勧請して氏神としたことが記され、現在の八幡神社の沿革を知ることができます。
八幡神社は、字宮の町と呼ばれる所に鎮座し、仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇の三神を祭神としています。
稲田は、南町・中町・橋本町・北町・旭町の5町に分かれ、秋祭り(宵宮10月21日、本祭り22日)の宵宮には、各町内から伊勢音頭を歌いながら、長提灯の宮入が盛大に行われます。
境内の一きわ高い神木”いちょうの木”は、樹齢約500年・樹高約35m・幹周5mもある古木で、稲田村と八幡八幡宮の古い歴史を伝える天然記念物して昭和49年3月25日に、市の文化財に指定されています。
住所:大阪府東大阪市稲田本町2-24-36アクセス:JR片町線「徳庵駅」から約900m
とても丁寧な対応を頂きました!
銀杏も有名ではあるが、日露戦勝記念碑の周囲には砲弾の玉垣。
名前 |
稲田八幡神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
06-6748-3120 |
住所 |
|
関連サイト |
https://osaka-jinjacho.jp/funai_jinja/dai6shibu/higashiosaka-city/t72.html |
評価 |
3.6 |
秋の銀杏は綺麗ですよ‼️💨