三好義継がこの城で自害している。
朝早く今日の旅が始まりです、大阪夏の陣若江の合戦を、歩いてまわります。
駅からかなり歩きました。
公民館?の中にひっそりたたずんでました。
【織田信長と石山本願寺戦と三好に関係あり】
織田信長により追放された室町幕府の将軍、足利義昭が入城したという。
現在は記念碑が祠とともに静かに時の流れを見つめているだけであります。
小さな祠になってます。
信長が関係してる城です。
三好義継がこの城で自害している。
三好家は武田信玄と組んで織田信長を討つ計画で三好義継がこの城で、そして松永久秀が多門城で織田軍に備えた。
しかし、武田信玄が京への途中病死した為に計画が破断した。
その結果、三好側が敗北した。
この若江城のお家騒動が、応仁の乱の原因の一つとなったと言われています。
当時の城下町はかなりさかえていたようです。
若江城は、大きく室町時代の初め河内國の守護・畠山基国によって築かれ、国を治めるための守護所(役所)とした城、その後、織田信長により河内北半国とともに三好義継に与えられた城、天正元年(1572年)に信長が義継を滅ぼし石山本願寺攻めの拠点とした城の三時期に区分することができます。
基国、義継段階の城はあまりよくわかっていませんが、信長時代の城は現在の若江幼稚園周辺を中心に素掘りで逆茂木(堀内の防御用の杭列)の打たれた幅約30m、深さ4mの内堀に囲まれた約20,000㎡の主郭(本丸)を持つ城で瓦葺き、白壁の隅櫓が建っていたことがわかっています。
外堀まで含めると約420,000㎡で当時の城の中でも最大級であったことから信長がこの城をいかに重要視したかがわかります。
堀の中からは、当時の城で使われていた多くの遺物が出土しており日常品(土師器、陶磁器、木製品、漆器椀等)とは別に鉄砲玉や刀の部品なども出土しています。
また、主郭内からは柱穴、礎石、基壇、石垣などが発見されております。
記録から、義継の家臣で信長に付き城を預けられた一人、池田丹後守教正により建てられたキリシタンの教会が存在したことが知られています。
城下町も存在したと思われますが、石山合戦が終了した直後の天正8年(1580年)に廃城になりました。
目印となるようなものはなく、気付かずに通り過ぎてしまいそうになるほど普通に道路沿いにあります。
室町時代から戦国時代初期のこの地に興味がある人なら押さえておきたい場所ですが通行の邪魔になるので長居は難しいかも。
かつては河内国を治める役所の役割りだった所が、やがて城になり信長が石山寺本願寺攻めの時、拠点の1つにしたそうだ。
若江城について、発掘での大量の遺物の出土を機に関心が高まり、調査が進んだ時期もありましたが、永い間その時の通説が順送りとなっていました。
しかし、近年、少しずつ進んだ発掘調査や史料の新たな解釈と解明により、再び研究が進みつつあります。
◎若江城跡(東大阪市若江南町2丁目)河内の平野部のほぼ中央部、玉串川と楠根川に挟まれ、楠根川を自然の外堀とした完全な平城。
長禄4年(1460)9月、河内守護職を更迭された畠山義就は、京都から洞ヶ峠(現枚方市)を経て、若江城に入っている。
若江城は義就が守護に就任した康正元年(1455)3月よりこのときまで守護所として河内の政治的中心地であったと考えられる。
応仁の乱中も、「大乗院寺社雑事記」文明2年(1470)8月5日条に「自昨日於河内国合戦有之、(東方畠山)若江城」とあり、東軍畠山政長の本拠すなわち守護所であったらしい。
(中略)その後、義就は高屋城(現羽曳野市)を築城して拠点を移したので、中心地としての地位は高屋に移った。
下って永禄11年(1568)10月、畿内に覇を唱えた織田信長は三好義継を河内北半国守護に補任して、若江城におらしめ、再び当城は河内の中心地となったが、天正元年(1573)11月、義継が前将軍足利義昭をかくまったため信長の怒りを買い、佐久間信盛に攻められて義継は自殺し、落城。
以後若江城には、信長に降った義継の部将若江三人衆(池田丹後守・野間左吉・多羅尾右近)が置かれたが。
三人衆は後に八尾城(現八尾市)に移った。
その時期は不明。
今日、若江城の遺構として地表に現れたものは皆無で、断片的な発掘調査により水路跡・壁面遺構などが発見されている。
(後略)※出典・参考:大阪府の地名2(平凡社刊)◎若江城[ 永禄11年、三好義継若江城主説 ]永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を伴い上洛すると、河内の三好三人衆方の城は没落した。
これにより義昭は、畠山昭高に高屋城を、三好義継に飯盛城を与えた。
ところが『甫庵信長記』などののちに書かれた史料では、これを若江城としている。
実は、これらの質の悪い史料によって、今まで三好義継の若江城入城説が通説として現在まで至っている。
しかし、詳細に見ていくと、永禄八年以降、三好三人衆方と松永久秀方が河内で繰り広げた戦いで、若江城は登場しない。
若江城は畠山義就の時代に廃城となり、それ以後は使われていないのだから当然である。
上洛して間もない義昭が、城の無い若江に義継を入れるような無茶はさせないだろう。
※近畿の名城を歩く -大阪・兵庫・和歌山編-(仁木宏・福島克彦編)
城跡碑と、道路を挟んで向かい側に説明板がありました。
歴史のある場所です。
若江城の歴史は大体4期に分けられると思う。
1. 南北朝時代、河内に進出した北朝側の守護職、 畠山氏の居城として。
2. 時は過ぎ、1573年、信長軍がこの城を攻略。
3. 信長軍の拠点となった若江城は石山本願寺城攻めの攻撃発進基地となる。
4. 1580年、本願寺と和議なり同年廃城。
翌年、ルイス・フロイスは若江の中央を通るが、その時でさえ城のあとはなかったいう。
そして今、180X190Mもあった若江城本丸は、その痕跡もなく、街の雑踏の中に埋もれてしまった。
歴史に度々出てくる。
名前 |
若江城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
南北朝時代から戦国時代織田信長らの時代まで存在したという。
今は石碑のみが残る。