河内源氏の歴史を感じる場所。
通法寺跡の特徴
河内源氏三代の墓が残る、歴史を感じるスポットです。
古い街並みの片隅に位置し、静かな雰囲気を持っています。
源頼義建立の通法寺跡で、歴史好きにはたまらない場所です。
源頼義が建立した通法寺跡には、頼信、頼義、義家の河内源氏三代の墓が残る。
平安時代や鎌倉時代の武将の墓はあくまで伝承に過ぎなかったり、後世の供養塔の類が多いが、この墓所は本物のようだ。
こういうものが現存するのは、奇跡に近い確率と言っていいかもしれない。
もちろん、墓碑や石垣は後世に整備されたものである。
門を潜った奥に源頼義墓所が在りますがwikiを見ると1043年源頼義が猟の時、焼けた草堂から見つけた千手観音の霊像を本尊として壺井堂を建て更に金色の阿弥陀如来を本尊として通法寺建立南北朝時代戦火で消失、江戸時代再興されるも明治時代廃仏毀釈で山門等が残るのみとか。
柏原駒ヶ谷千早赤阪線、通法寺交差点から、入っていくのが分かりやすいかもです。
ただ道は余り広くありません。
門の前に数台分の駐車スペースがあります。
源頼義のお墓がありますが、あくまで寺院跡ですので、他に何かあるわけではありません。
河内源氏のゆかりのお寺。
門をくくり、左側が頼義のお墓。
河内源氏の祖、三代の墓があります。
河内源氏の祖の菩提寺でさえ、明治の廃仏毀釈でつぶされています。
それが目の当たりにわかります‼️
古い街並みの片隅に、門だけが残っている。
門を見て右手に進むと義家の墓の入り口に通ず。
河内源氏発祥の場所歴史好き人なら一度行くといいです。
ひっそりしていて一人で散策するのにはグッド。
👌春には桜も咲きます。
🌸近くに壺井八幡宮もあるので是非とも寄ってほしいです。
😊
門のみ残ってます、どんなたてものが建っていたのか想像すると楽しいです。
源氏三代の墓のひとつの源 頼義のお墓がありました。
山門のみ残存、後は頼義の墓がある。
頼信、義家の墓はここから歩いて行けます。
頼義のお墓以外は目立ったものは残っていません。
まさにつわものどもがゆめのあとでしょうか。
以下、羽曳野市観光協会Webページより。
「長久4年(1043年)、源頼義によって建てられた寺。
頼義が猟の途中、山中で拾った仏像を本尊として安置したのがはじまりという。
その後、河内源氏の菩提寺となったが、南北朝時代に兵火にかかり焼失。
元禄13年(1700年)、徳川幕府により再建されたが、明治初期に廃寺になった。
境内には頼義の墓や礎石、鐘楼、山門などが残る。
」
河内源氏の菩提寺跡です。
建物は ほとんど なにもありませんが、それが、また良い。
桜の名所です。
一見、殺風景な感じですが、源氏ゆかりの地で歴史を感じます。
源頼義、義家などの墓があります。
河内源氏発祥の地として由緒のある寺のようですが、明治の廃仏毀釈の時に廃寺となりそのままのようです。
今は寺の門と墓が残っているだけで夏草が映えていました。
名前 |
通法寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.habikino-kk.net/post_jisya/%E9%80%9A%E6%B3%95%E5%AF%BA%E8%B7%A1 |
評価 |
3.6 |
周辺のオススメ

この辺りは石川右岸(東)の田畑と古い街並みの残る地域で、直線距離で300m弱の範囲内に全てがあり通法寺ま 以前紹介した壺井八幡宮とも500mほどしか離れていないので、一連の河内源氏ゆかりの地として合わせて訪れる方も多いです。
⬜通法寺の歴史と概要「通法寺興廃記(つうほうじこうはいき)」によると、長久(ちょうきゅう)4年(1043年)に源頼義が猟の途中に仁海谷で千手観音像を見つけ、これを持ち帰りました。
頼義は館の南、山の谷と呼ばれる谷状地の入口に精舎を建立し、その仏像を本尊として安置して通法寺と号したのが始まりと伝えられています。
その後、頼義は浄土宗に帰依し阿弥陀如来を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり、源氏の隆盛と共に栄えました。
通法寺は南北朝時代に戦火にかかり焼失しますが、江戸時代になって源氏の子孫である多田義直が5代将軍綱吉に願い出て、柳沢吉保らが普請奉行となり元禄13年(1700年)に再興されました。
明治元年(1868年)に廃仏毀釈により廃寺とされ、明治6年(1873年)には一部の建築物を残して取り壊されました。
跡地は石丸神社となったものの明治40年(1907年)年に壺井八幡神社に合祀されたようです。
昭和32年(1957年)に、河内源氏の形成発展する様相を示すものとして、源氏三代の墓を含め、文化財保護法に基づき「通法寺跡」として史跡と指定されました。