塚穴古墳は見た目は古墳の様だが古墳ではなく江戸時代...
塚穴古墳は横穴式の石室を持つ古墳です。
しかし、この石室は古墳時代に造られたものが、そのまま残っているわけではありません。
昭和61年に市教育委員会によって行われた調査で、この石室が近世に壊され、再度組み直されたものである事がわかりました。
石室の石材をよく見ると、その頃につけられた、石を割るためのクサビの痕を見ることができます。
平成8年には、同じく市教育委員会によって石室内部の詳しい調査が行われました。
石室内部に堆積していた土砂を取り除くと、床面に穴を掘って埋められている甕が4基見つかりました。
これらの甕のうち3基には成人の火葬骨が納められていました。
内部に堆積していた土砂の中からは、五輪塔や宝筐印塔などの石造物が多く出土し、土器や陶磁器に混じって、永楽通宝や寛永通宝などの銅銭も出土しました。
石造物に刻まれていた年号と寛永通宝から、これらの遺物は江戸時代のものと考えられます。
これらの調査結果から塚穴古墳石室は江戸時代に組み直されたあと、内部を墓地として使っていたものと考えられます。
地元の伝承には大坂城築城の際に古墳の石材を運ぼうとしたところ、なんらかの事情により元の場所に戻した、というものがあります。
と説明板には書いてあります。
塚穴古墳は見た目は古墳の様だが古墳ではなく江戸時代の共同墓地だそうです。
河内長野市はこれは調査の結果古墳でなかったのなら名称を変更しないと誰でも古墳と思いますよね。
名称は塚穴誤墳かな?追記(訂正)市のHPでの説明では古墳を江戸時代に共同墓地として利用とあるが、図説河内長野市史19ページのコラムでは「古墳ではなかった塚穴古墳」とありふるさと歴史学習館に問い合わせた。
結果、大坂城の石垣に利用の為一旦、石を割ったりして運び出したが要らなくなって又戻したり、墳丘を削ったりされ良くわからないところがあるが、元々は後期古墳だったと理解した。
▪️アクセス南海高野線u0026近鉄長野線/河内長野駅西口、南海バス / 「高向」 「滝畑ダム」行に乗車し下高向下車、徒歩7~8分。
▪️河内長野市に僅か2基のみしか現存しない古墳の1つで、残りの一基は河内長野駅から7 ~ 8分の距離にある烏帽子形古墳です。
同丘陵内には、遺構の現存度の高い「烏帽子形城跡」が所在します。
▪️本墳は外環 (170号線) 沿いにある為、場所確認等に時間を費やすことなく容易に到達できます。
▪️伝承u0026逸話に事欠かない情報量の結構豊富な古墳なので、詳細は敢えて省きます。
江戸時代のお墓らしいです。
道路沿いの古墳。
小さいですが歴史を感じます。
直径約15m内外の円墳。
伝承では豊臣秀吉の大阪城築城にともない、古墳を破壊して石を運び出したところ、疫病がはやり、人々は恐れをなして石室を元に戻したとのこと。
(河内長野市Webページより)街中の道路沿いにある古墳。
埋葬者も落ち着いて眠れないだろうな。
名前 |
塚穴古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
土で埋められ内部は見えないです隣に地蔵堂もあります。