仕事行ってます川向い布団太鼓は最高です今年は布団太...
歴史好きには隠れスポットです、車を停めにくいが此処の御参りと判れば地元の皆さんとても優しい、地元の誇りみたいですよ。
・保存会の方々が、朝から甲斐甲斐しく清掃をされていました。
ご苦労様です。
今後ともよろしくお願いいたします。
堺かるたに詠まれた地に、当該かるたと解説を投稿しています『堺かるたを巡る vol.1/44』あ:顕家の悲壮な戦死石津川南北朝時代、南朝にとって堺は大切な軍港でした。
どうしても堺を守りたい南朝と、堺を奪おうとする北朝との決戦が堺で行われました。
1338年6月10日、和泉国堺浦・石津において、南朝陸奥将軍府の総大将北畠顕家と北朝・室町幕府の執事高師直・師泰兄弟が戦った合戦で、堺浦の戦いと呼ばれています。
主だった武将が多く戦死し、中でも顕家は21歳の若さで戦死したと伝えられています。
顕家の供養塔が紀州街道の石津川に架かる太陽橋の南畔に建立されており、今でも地域の方々がお祀りされています。
(堺かるた、Wikipedia、堺市HPから編集)u003cview pointu003e◇北畠顕家の供養塔阪堺線石津電停から徒歩3分南海線石津川駅から徒歩7分投稿…2022.3.1
ここ太陽橋は北畠顕家&南部師行の奮戦地であり戦死した場所と言われております。
大好きな北畠顕家の最期の地にもやっと訪れることができました。
16歳で歴史の表舞台に立ち、南朝方の武将として最期の最後まで天皇に忠誠を尽くし壮絶な最期を遂げた北畠顕家。
21歳の若さで歴史に名を残すとは本当に凄い方です。
北畠顕家の副将である南部師行も一緒に祀られてました。
青森県八戸市にある根城(日本百名城の一つ)を拠点に、大量の軍馬を生育し北畠顕家を最後まで支え続けた猛将です。
南部師行と同じ八戸市出身の嫁さんも連れて訪れることが出来たので何かの縁をとても感じました。
最近偶々車で道に迷って通りがかった所で、立派な供養塔があることを知り、改めて自転車で来ました。
石津川の太陽橋南詰めの紀州街道沿いにありますが、狭い道が集合するところなのに、車や人の往来の多い所でした。
明らかに地元の人に愛されているのがよくわかりました。
また、一緒に行動を共にした、遠く陸奥国の南部家の方も一緒に供養されていることを知りました。
色々な思いを馳せながら手を合わせましたが、その時に四條畷にある楠正行公の墓所を思い出しました。
もしかしたら、あの世で繋がっていて、仲良くされているのかも知れません。
掃除が行き届いていて、地域住民に北畠氏が親しまれているのが良く分かった。
こじんまりと、川岸にあり。
小さな祠で、まあありがちてはありますが歴史上の人物の史跡としては意外な印象です。
延元3年/建武5年5月22日 (1338年6月10日) 「元祖風林火山」の南朝方、北畠顕家が観音寺城(和泉市)より出陣し、石津川を挟むこの周辺で、北朝方高師直軍と合戦がありましたが、連戦の疲労と、北朝方の援軍瀬戸内海水軍の加勢で圧倒的不利になり、再起を目指し吉野へ向かう際に落馬し、この地で討ち取られました。
阿倍野区の北畠公園内に「伝北畠顕家墓」があります。
北畠顕家公は、公家でありながら、わが大阪の英雄、楠木正成公に並ぶ、否それ以上の南朝方のエース的存在でした。
楠公・顕家公、後に新田義貞公も倒れ、南朝方の勢いは一気に弱まります。
押し間違いした。
明日慰霊祭です。
橋を渡った場所にありますので駐車は無理だとおもいますでも、近所の方がお花活けたりして綺麗にしてます。
北畠顕家さんが「堺浦の戦い」にて、ここ浜寺石津町で戦死したということでゆかりの地となっています。
紀州街道、南北朝の戦いがこんな所まで。
石津川の戦いで戦死した花将軍・北畠顕家公供養塔。
説明の案内板も有ります。
ただ歴史マニア以外は分からないかなぁ~(((^^;)。
名前 |
北畠顕家戦死の地 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
080-4240-1309 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
毎日、仕事行ってます川向い布団太鼓は最高です今年は布団太鼓あるから最高です台風来ないでね祭日に来ないでね。