園内に礎石が散らばっている。
聖武天皇は、天平13年(741)奈良東大寺を総国分寺、法華(ほっけ)寺を総国分尼寺とし、全国に国分寺・国分尼寺をおいた。
摂津国分寺については、ほとんど知られることがなかったが、この付近から奈良時代の蓮華文(れんげもん)や唐草文軒瓦(からくさもんのきがわら)が出土し、国分寺跡と推定されている。
石碑と解説板のみ、難波宮の朱雀通り沿いの東側にあたるそうですね。
もちろん当時の条理は確認出来ません。
瓦の出土のみで、推定地みたいですね。
何気なく公園を歩いていると北側に解説板があった。
摂津国の国分寺があった可能性があるとのこと。
今は、解説板が立つだけで国分寺の痕跡もないが、難波京跡南側に位置し交通の要所でもあるこの場所から当時の賑わっていた様子が伺える。
以下、解説板より。
「奈良時代の国家は、災害や外敵からの保護をはじめ五穀豊穣などの利益を仏教によって祈るため、各国ごとに官営の寺院である国分寺(国分僧寺)と国分尼寺を建立した。
地名などによる研究のほか、近年の発掘調査により国分寺と国分尼寺の所在地や伽藍配置がはっきりと確認されていいるところもある。
しかし、摂津国については国分寺と国分尼寺の所在地や建立後の変遷について具体的にはわからない。
国分寺については天王寺区国分町のほかに、北区長柄と中央区森ノ宮中央に「国分」もしくは、「国分寺」の名が残り、そのいずれを奈良時代の国分寺所在地に当てるかについて諸説がある。
この天王寺区国分町の国分町公園とその周辺からは奈良時代の古瓦が出土しており、この地を奈良時代の国分寺と考える説が有力である。
」以下、大阪市Webページより。
「聖武天皇は、天平13年(741)奈良東大寺を総国分寺、法華(ほっけ)寺を総国分尼寺とし、全国に国分寺・国分尼寺をおいた。
摂津国分寺については、ほとんど知られることがなかったが、この付近から奈良時代の蓮華文(れんげもん)や唐草文軒瓦(からくさもんのきがわら)が出土し、国分寺跡と推定されている。
」
国分公園内に表示あり。
駐車場はないが一瞬で見終わるので車を公園横に一時停止させても3分以内で見終わる。
碑だけが立っています。
名前 |
摂津国分寺跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
06-6615-6782 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
2.9 |
園内に礎石が散らばっている。
隣の区画には「国分寺」というのもあるけど、一般開放はしていない様子。