非常に地味〜な史跡です。
歴史的な背景は他のクチコミに詳しく記載されてます日本人の水に対する熱い思いが具現化された施設だと思いますここに来たら”円筒分水・分量桶・横土手”は歩いて回りたい所です。
1941年に円筒分水が完成するまで4つの堀に水を分けるための分量樋(用水に仕切りを設けて4つの堀に公平に分ける樋)がここにありました。
ただ、用水の中央と岸側で流速が違うため開口部の比率を公平にしても水量は公平にならず、水争いが絶えなかったようです。
そこで1941年、円筒分水が完成し役目を終えました。
説明板は円筒分水にあります。
円筒分水以前に二ヶ領用水の水を分けていたが、今は跡形もない。
絵地図は『大山街道ふるさと館』で見つけたもの。
名前 |
久地分量樋跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.3 |
非常に地味〜な史跡です。
ちょっとした…何気ない歴史とかも好きな人向けの史跡です。
しかしながらここは…今、大河ドラマ「どうする家康」で旬の神君・徳川家康公の命により造られた用水路跡です。
(更に家康公の何代か後に分量用水に改良)江戸時代初期、この辺りはそもそも米作りの用水路が少なく規模も小さかった事から、米の収穫量も少なく、水の取り合いの争いも多かった様です…徳川家康公が「どうする?」と考えた末に、小泉次大夫という方に命じ、豊富に水を引く大規模な用水路を造らせます。
それにより、この地域の米の収穫量は飛躍的に伸びたらしいです。
そして、さらに後の時代には、水を平等に分けて流す施設を幕府は造らせたらしいですね。
最初の用水路工事は江戸時代が始まる少し前、慶長二年(1597年)に着工し、江戸時代初期の慶長十六年(1611年)に完成したとか。
今は石碑が有るだけですが、家康公が「どうする?」と考えた場所というだけで、十分興味深いですね。
こういった個人の想像力を膨らます、何も無い史跡…意外と大事です。
(ですが…目の前に昭和に改修された九地分量樋の最終型である、九地円筒分水という史跡が有りますので、それを見学すると良いでしょう)そして先にも書いた様に、江戸時代初期から約百年後、荒廃したこの用水路を幕府の命により田中休愚という方が再興すると共に、平等に水を送る水の分量施設に改良・改修したとの事です。
それで水争いは無くなりました。
*写真の滝の様な施設と、魚道?の様な物は、当時の分量施設とは何ら関係有りません。