論者の一つです。
名前 |
山邊御縣坐神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33606 |
評価 |
3.8 |
論者の一つです。
山辺御県坐神社A:天理市別所町県谷B:天理市西井戸堂町大門祭神--建麻利根命 延喜式神名帳に、『大和国山辺郡 山辺御県坐神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、論社(後継候補社)として上記2社(上記A・B)があり、いずれとも決め難いという。
社名は“ヤマノベノミアガタニマス”(又はヤマノベノミアガタノ)と読む。
※由緒 当社は、大和国にある6ヶ所の御県(ミアガタ)の守護神として設けられた御県坐神社の一社。
御県とは、延喜式の祈年祭祝詞(トシゴヒノマツリノノリト)に、 「御県においでになる皇神(スメガミ)等の前に、『高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と御名を申してお祭り申し上げます所以は、この六つの御県に生育する甘菜辛菜の蔬菜類を持ち参り来たって、皇御孫命(スメミマノミコト)の長久の召し上がりものとして、召し上がられます故に、皇孫等のその恩賴に対する御礼として、皇御孫命の立派な幣帛を捧げ献ります次第です』と・・・」とあるように、朝廷に蔬菜などを供給する朝廷直轄地(御料地)をいう。
当社を含めて御県神社6社の創建年次は不明だが、書紀・孝徳天皇大化元年(645)8月5日条に、 「国司に対して、倭国の六つの県に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検地せよ」と命じていることから、7世紀中頃にはあったと思われるが、確証はない。
当社についての史料上での初見は、天平2年(730)・大倭国正税帳(正倉院文書)に 「山辺御県神戸 稲二六二束□把半 租十束 合二七二束□把半 用四束祭神 残二六八束□把半」とある記録で、次いで新抄格勅符抄の大同元年(806)牒(奈良時代以降、社寺に与えられた封戸の記録)には 「山辺御県神 二戸」とあり、当社が8世紀にあったことは確かといえる。
また、当社に対する神階授与記録として、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に 「大和国従五位下・・・山辺御県神・・・従五位上を授く」とあるが、その後の昇階記録等は見えず、所在地を含めて不明となったという。
当社の論社(後継社候補)として ・大和志(1734・江戸中期) 「山辺御県坐神社 西井戸堂村に在り」 ・大和志料(1914・大正初期) 「山辺御県坐神社 山辺村大字別所県谷に在り 亦云ふ、二階堂村大字井戸堂に在りと、拠なし 当国六御県神社の一にして山辺御県神を祭る」の2説(天理市別所町・同西井戸堂町)があるが、その比定根拠ははっきりせず、いずれとも決し難い。