お釈迦様より第百三十世・藤田憲英と申します。
私は弘前市、龍沢山・嶺松院三十五世であり、お釈迦様より第百三十世・藤田憲英と申します。
近頃嶺松院のことをネットに載せてくれて、ありがとうございます。
さて、嶺松院の正確で歴史に残されている嶺松院縁起を開示します。
創建は元永三年(1120年)、奥州平泉・天台宗中尊寺の行者によって、天台・真言・密教の光明院の別当と成し、岩木山百沢寺別当寺院となる。
応永十一年五月(1404年)、室町幕府四代将軍足利義持の命により、南部行政(二十八歳)は父、南部守行の代行となり、応永十九年(1412年)気仙出陣、応永二十三年(1416年)秋、二十四年正月、足利持氏と上杉氏憲の騒乱につき行政、鎌倉出陣。
応永二十五年(1418年)八月、南部行政上洛。
室町幕府七代将軍足利義持の命により、名を行政改め、将軍の一字を賜り、南部義政と命名、そして南部十四代当主・南部陸奥国司となった。
応永二十七年八月、義政公、安倍氏・安東氏・の主城藤崎城を駆逐するため、永享三年(1431年)より、嘉吉三年(1443年)五月、下国十三福島城・安倍大納言、安東盛季氏、安東康季氏を攻略。
一将として軍を進め、鼻和福岡館(現在蒔苗十字路信号のあたり)に陣を敷き、その折、自らの守り仏、多宝如来をこの地に奉納し、その時、当寺を勧請す、父南部守行が五男の成尊法師を住し。
以来、御本尊は現在も当院に祀られている。
永享十二年(1440年)南部義政公、突如、病となり、庚申年卒去。
後、臨済宗の尊宿が来られ、御戒名・「大檀越源朝臣南部庄司国司遠江守沙彌禅頭偏諱従五位下大膳太夫義政公」 と知らされた。
当院は義政公を御開山と仰ぎ「新捐館 嶺松院殿龍山道公大禅定門 霊位」永享十二庚申年七月十二日卒去 六十六歳この御戒名を山号・寺号として用い、拝謝し、『龍沢山 嶺松院』と名付けられるようになった。
やがて時代は戦国期に入ると、大浦為信は北奥を治め始めたが、太閤豊臣秀吉が小田原征伐、北条氏廃絶に動くを知り、為信公大阪城に赴く。
その折、秀吉公自ら安堵のお言葉を発し、自らの友成銘太刀を拝領し、津軽に戻る。
奥州はまだ太閤殿下の支配下なく、また全国が意に応じないため、惣無事令を発し、豊臣秀次、徳川家康、前田利家、石田三成等、奥州に参陣す。
寄って為信公も、九戸政実の乱の戦陣を仰せられ出陣。
天正十九年(1591年)九月四日、九戸城落城。
そして時代も移り変わり、元和二年(1615年)、津軽二代藩主津軽信枚の領国統治と城下町整備のため(西の構、軍事、文化、経済、領民の掌握、祖先を奉り過去帳を備え檀徒の指導者、目付役を加味する。
即ち徳川幕府の宗教政策の一環であったため。
)他の寺院とともに、旧暦の六月十日、御本尊と荼枳尼天を伴い、お城の西、茂森山に移構、後、三十三ヶ寺の禅宗曹洞宗の寺院が立ち並んで、通称禅林街と言われています。
また、禅林街は曹洞宗のみ三十三ヶ寺立ち並び、全国広と言えども、弘前市にしかない重要文化財地域であります。
※さて、その太刀はどうなったかというと、『君万歳』と命名され、戦前までは国宝であったが、戦後重要文化財となって、今でも岩木山高照神社に奉納され、拝観もできるようです。
※ また、日本国内閣総理大臣第九十代、第九十六代、第九十七代、第九十八代首相を務めた安倍晋三氏は、安倍貞任・惟任・そして藤崎城の安倍安東氏の子孫でもあります。
※ 尚、当、嶺松院には宝物が色々残されています。
新しいお寺です。
名前 |
嶺松院 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0172-32-4618 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
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嶺松院(れいしょういん/reishōin)。
観光で禅林街に立ち寄った際に訪れましたが、ちびっ子たちが走り回っていました。
明るく開けた境内です。