都一番の美女で源義経のお母さん。
伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種(ちぐさ)と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引取ります。
哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えら れています。
平安末期の人で源義朝の側室で源義経のお母さんの墓です。
涙なくしては聞けない遙か昔の母の思いを感じる場所ちゃんと葬られて良かった。
義経の母の常盤御前の墓です。
義経が近くの若宮八幡宮に戦勝祈願に来たらしいので、母の墓にも来たのかと思いましたが、そうではないようですね。
義経の方が早く亡くなっているらしい。
また常盤御前の墓は、他にもいろいろあって、ここではないという説が有力のようですね。
絶世の美女だといわれる人だったので、いろんな伝説があるようです。
真ん前の道は細く、車を駐車するなら旧中山道しかない。
自転車もしくは二輪車で来るのがベター。
お墓自体は明るくひらけていてゆっくりもできます。
とても綺麗に整備されています 🙏🙏歴史が好きな方はにはお勧めします常盤御前は凄く美しい女性だったみたいですね 🤩🙋🙋
りっぱなお墓でした。
暑さでボッーとしながらお参り、近くにお地蔵さん?何かもあったような、綺麗にされてました。
毎年、お世話になっています。
関ヶ原役場に車を止めて 関ヶ原宿からひたすら中山道旧道を→今須宿→柏原宿→醒ヶ井宿までの15km。
心地よい汗と筋肉痛。
やめられません。
民家の間にひっそりと有り余り訪れる人は少なく感じましたが、関ヶ原から中山道を歩いて柏原宿に向かった場合、唯一トイレ休憩が出来る場所で大変助かりました。
関ヶ原から近い場所にお墓があったんですね。
源義経の母というのは知ってましたが、この人の悲運は知りませんでした。
考えてみれば義経もそうですが、義経に関わった人は静御前もそうだし、義経の正室もそうで、さらに正室の実家である河越氏(埼玉の川越辺りを治めていた鎌倉幕府の御家人で、秩父流平氏の一つ)も悲惨な目に遭いましたからね。
常盤御前とは源義朝の側室で源義経の母親義朝が平治の乱で敗れ一族が離散、東国へ走ったとされた牛若丸(義経)を追って侍女と共に追いかけたという伝承ありその道中、この地で土賊に襲われ命を落としそれを哀れんだ里人がここに葬り塚を築いたそうです隣には松尾芭蕉の句碑もあります。
都一番の美女で源義経のお母さん。
手を合わせに来ました。
常盤御前は平安時代末期に近衛天皇の中宮(嫁さん)の藤原呈子が雑仕女(ぞうしめ:使用人)を募集した時、1000人中にナンバーワン美女その美貌で16才で源義朝の側室になり三人の子供を産む。
その一人が牛若丸で後の源義経(みなもとよしつね)です平治の乱で源義朝が敗走した後は平清盛の側室になったとも言われる平泉から来た牛若丸の手紙を見て東国に旅立つ常盤御前はこの関ケ原山中の宿で土賊に襲われ絶命都に向かっていた牛若丸はその事を聞き土賊を探し出して仇を討ったらしい芭蕉の歌碑もあります義朝の心に似たり秋の風 芭蕉奇妙なトラベラーたかぼん。
常盤御前のお墓と伝えられているものは他にも多数ありますが、当地のエピソードが最も哀感に満ちているように思います。
近くに常盤地蔵あり。
関ヶ原町〔常盤御前の墓〕前に芭蕉句碑が建っている。
義ともの心に似たり秋のかぜ 碑は文久2年(1862)国井化月坊(美濃派十五世)が建立。
横に化月坊の句碑も建っている。
その幹に牛もかくれて桜かな 垂井町・岩手地区まちづくりセンターにも化月坊の句碑が建っている。
公園です。
人は全くいません。
さる悲運の貴人の墓としての情緒に浸ることができる静かな空間がここにある。
常盤御前といえば、 ・源義朝の妾で、 ・源義経の母親で、 ・のちに平清盛の妾となり、 ・さいごに一条長成に嫁いだ。
細い道路から路地に入り民家の裏手にある公園の隅にひっそりとあります。
道路には「常盤御前の墓」という小さな標識があるのでそれを目安に。
名前 |
常盤御前の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
えっ?なんでここに?と思いましたが看板を見てそう言うことかと。
周辺の方々に綺麗にされてとても大切にされているのだろうと感激しました。