少量の、水分を持っての墓参りをオススメします。
大谷吉継の陣跡から5分ほどにあります。
最初は家康と事を構える事をやめるよう石田三成を説得しましたが三成の覚悟を知り友と共に家康と戦う事を選びました。
吉継にしてみれば家康と戦っても負ける事が分かっていて義を貫くまさに武将の誉れなのでしょうね。
秀吉にして100万の軍勢を指揮させてみたいと言わせたほどの器の大谷吉継の最期は自害をして家臣の湯浅五郎に首を敵に見つからず埋めてくれと頼みました。
たまたま埋めてる最中に藤堂高虎の甥の藤堂高刑にみつかり自分の首を差し出す代わりに吉継の首の場所は黙っておいてくれと藤堂高刑に懇願、高刑も湯浅五郎の忠義に感動し家康から吉継の首のありかを聞かれても絶対に口を割らなかったそうです。
駐車場から頑張って登るとひっそりときれいに掃除されて、お花が供えられたお墓が二つ。
心が洗われる想いでした。
神社を抜けると山道✴道案内が要所要所に設置されているので迷子になることはないです。
ちょっとした山登り体験できます。
靴は必ずスニーカーで👟開けた場所に出るとそこが大谷吉継さんのお墓説明文には吉継さんの死からその後の義を感じる感動話が書かれています。
吉継さんの隣には五助さんのお墓が並ぶ。
戦国武将の心を感じられる場所。
大谷吉継推しの聖地…なのでしょうか(笑)関ケ原古戦場記念館を見学したのち、訪れてみた。
調べたら、地図で言うと少し東の、平塚為広の碑の近くから行けるとの事で、周辺を探してみたら確かに案内板はあったが駐車場が無い!(正確には路肩が少々広めになっているので駐車しておくことは可能だが、ちょっと躊躇うサイズ感だった)なので、地図にもちゃんと載っている『大谷吉継陣跡 駐車場』に車を停め、山道を登ることにした。
駐車場から310mで陣跡、更に310mで吉継の墓に着く。
ココに来る前に石田三成陣跡を訪ねたのだが、それが結構な辛さで。
それに比べたら、ものすっごく楽な山道だった。
どなたかがバイクでここを訪れた様子をupしていたが、なるほど充分バイクでも来られそうなほど道幅もちゃんとある(でも多分バイクの方々は平塚為広側から来たと思われる。
駐車場からだと石段を登らねばならないので)。
陣跡はただの石柱と案内板があるだけの、こそっとしたものだったが、墓の周辺はそれなりに整えられ、落ち着いて手を合わすことが出来た。
娘に頼まれねば、一生来ないと思う場所。
良い経験だった…ということにしておこう(笑)
悲運の名将大谷吉継の墓。
湯浅五郎が自分の命を差し出して護った吉継様の首はまだ埋まっているのだろうか。
まぁまぁ険しいです!自分場合雪が降ってたので!雪の日は、おすすめしません!
山の中にあるお墓,案内は充実しています,介錯の湯浅五介のお墓も隣に有り,但し前述の通り山の中なので歩きやすい格好で。
ずーと行きたかった所。
凄く立派なお墓でした。
ホントに刑部の首があるのでしょうか?影武者も多かった時代に、ましてや頭巾をしていた刑部。
誰も真偽を知らず、忠義深き悲しき武将の1人です。
厳かな雰囲気です。
戦国の世に思いをはせれます。
男として最高の生き方とはこうだ!と見せつけられた気分になります。
車を止めて軽い山道を歩いて行きます。
人と会う事もなくただただ静かでした。
お墓周りは綺麗に整備されており、大切にされている感じです。
蚊は多めです。
駐車場から踏切を渡り神社を通って登って行きます。
途中吉継陣地跡がありそこから小早川秀秋の陣地跡の松尾山が見えます。
そしてもう少し登っていくとお墓があります。
そこだけ空気が澄んでるような気がします。
石田三成の盟友、大谷吉継の陣所☺吉継は開戦当初より小早川秀秋に疑念あり、万が一の場合に備え兵を配置していました☺陣所内に吉継の墓所があります☺またこの地から小早川秀秋が陣を敷いた松尾山が良く見えます☺
ま新しいお供えの花があり、いまも大切にされているようです。
墓までの道のりも良い雰囲気でした。
関ケ原に来たら大谷刑部のお墓は必ず訪れたい場所。
隣には家臣の湯浅五郎のお墓もあります。
花が供えてるところをみるととても大事に供養されているなと実感しました。
でもあまり人がいなく残念です。
大谷吉隆(吉継)の墓。
自転車だと関ヶ原駅から時間がかかります。
車で向かう場合、無料の専用駐車場あり。
マップで大谷吉継の墓を指定すると、駐車場と真逆側の山道から登るルートに案内される事もあるので注意を。
山道は整えられているので、それほど苦労する事はありません。
展望台側に向かうと、刑部の顔抜き立て看板あり。
記念撮影はぜひ、そこで。
道を歩きて考へた。 テク…🚶…テク…🚶大谷吉継は九月二日、山中村に着到。秀秋籠る松尾山城に、睨みをきかす為か、此処で陣ばり(陣城作り)を続けたらしい。その為に壮大な変形鶴翼の構えとなる絵図(左翼が笹尾山の三成陣、右翼が松尾山の秀秋の陣となる)を描いた。ならば意図したのは戦線膠着させる事で、短期決戦では無かったはずだ。関ヶ原合戦の展開は、吉継が本当に意図した戦術とは、かなり違った気がする。完成前に内部崩壊したからだ。もう少し穿って考えてみよう。吉継自身はその扇のカナメ位置(中山道筋)に居た。然しこれは陣立的には、総大将のポジション。大津城攻略軍(その主力は毛利勢、約一万五千くらい。十四日に落城した)を、翌日か翌々日あたりに此処か松尾山に、迎え入れる腹だったのではないか。お膳立てを粛々済ませた上で、西軍総大将 毛利輝元を松尾山城(主家が来れば小早川軍は前衛軍となる)に着座させ、采配を執らせる。これにて西軍盤石、不敗の構えが完成となる。策戦のキモはコレではなかったか? 目指したのは[不戦勝利]だな。北国街道睨む笹尾山の石田三成、島津維新、天満山布陣の小西行長、宇喜多秀家、此処に大谷吉継、吉勝と立花宗茂か、前軍に脇坂ら四将が並ぶ。松尾山城には毛利輝元が座し、山の麓には小早川軍が居並ぶ。南宮山の毛利秀元、麓の長束正家、長宗我部盛親らは伊勢街道筋に、出張るのかもしれない…。関ヶ原盆地の西と南面の山々に、圧倒的な数の旗幟が立ち並ぶ。さらに東軍動揺を誘う”ニの策”があった筈だが判らない。濃霧の中、早々に戦闘が開始してしまったからだ。リアル戦史は、九月十五日未明。三成に北国街道筋の抑えを任せ、吉継軍と与力衆で山中の街道筋を扼する立場を選んだようだ。更に息子の吉勝、更に寡兵の四将(赤座ら)を秀秋の抑えに置いた。秀秋の東軍内応はまず想定内だったのだろう。しかも抑え切れると読んでいた。ならば…名将 大谷吉継唯一の誤謬は、松尾山の動向では無く、南宮山(毛利、長宗我部ら精鋭群約三万)が総攻撃の狼煙にも、反応しなかったコトだ。総大将格の毛利軍(毛利秀元、主戦派)が参戦しなければ、戦術全てが崩壊なのである。影響は西軍戦線全てに、及んでしまう。吉継さん、曇天を仰いで「天は我を、見放したのかァァァ~!!」策士策に溺れたのか?いや、違う。裏切り者を迎え撃てェ! ٩( ゚∀゚)・∵. グハッ…!! 決して逃げなかったのである。軍法を守り死守したのだ。だから此処に、吉継の墓がある。泣けるよ。よく西軍敗因は”小早川秀秋の裏切り”とされるが、真の戦犯は南宮山の”隠り蝙蝠野郎共”である。
その後の歴史が、その事を示唆している。
名前 |
大谷吉継の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
山道なので、スニーカーや歩きやすい服装、少量の、水分を持っての墓参りをオススメします。
駐車場から、案内板に沿って行けばたどり着けます。
素晴らしく手入れのされたお墓が二体。
湯浅吾助、大谷吉継。
関ヶ原の戦いの物語に興味を持つ方は必ずしも訪れた方がいい場所ですね!そして、お墓の手入れが素晴らしいです!何時も参拝してるのですが仏花が何時も綺麗に備えられています。
それだけでも何時も感動します。