本来は安房洲明神が祀られていた神社。
小高い丘の上にあります歩いて登るの一苦労でした!帰りは、おんな坂を下って帰ります。
厳かな雰囲気は良かったです。
見晴らしのよい神社。
丘の上にある、こぢんまりした神社。
住宅街の中の高台にある神社で、 近所の人にしか知られていないかもしれません。
しかし境内は広く立派な社殿です。
鳥居も普通の神社のように立派です。
高台にあるため、長い階段を登って行かないといけないので少し大変です。
桜🌸の時期がいいですね。
港南桜名所の坂登ったとこにあります。
落ち着いた境内で心が和みます。
言わずと知れた笹下・港南地域の総鎮守。
かつてここには笹下城の出城、松本城がありました。
坂や階段がかなりきついですが、眺めも抜群に良いです。
境内には地域出身者の戦死者をまつる慰霊塔があり、社殿には日清日露戦争にまつわる額が奉納されています。
トイレ、御朱印、御守りあり。
平成31年4月より奉賛会に加入しました。
この神社には立派なお神輿がありますが、かつぎ手がいないとの事でずっとしまわれたままになっています。
港南さくら祭りの際にはかろうじて子供神輿が出ていますが、これだけの住宅密集地でかつぎ手がいないのはさびしいことです。
地元の知り合いに声をかけて、いつかお神輿を盛大に復活させるのが夢です。
・・・が、はや半年たちましたが、お祭りの手伝いの依頼が来るわけでもなく、なんか会報が送られてくるわけでもなく、なんの連絡もなくて、奉賛会は活動しているのだろうか?
雰囲気はありますが、書き置きの御朱印も残っておらずがっかりしました。
この周辺地域の氏神はこちら天照大神宮との事です。
森浅間神社が兼務する神職不在の氏子神社。
御朱印は書き置きが有りますが、日付を加筆して頂けない時も有ります。
記帳を希望される場合は本務社にて。
但し、1週間程の預かりとなります。
たまたまバスで見かけて行きました。
名前が立派ですが、こじんまりとした神社です。
御朱印は書き置きがありました。
バスでは上大岡駅から洋光台駅行きで桜坂上下車から徒歩です。
本来は安房洲明神が祀られていた神社。
笹下城主が間宮信元公の時代に接収され安房洲明神は移転、その後再び江戸時代を通じて祀られていた。
当時は天照大神宮は元は久良岐郡森村(磯子区森~中原)の地域に存在していた。
その支配は松本村(港南区港南)修験道の権現堂の管理下に置かれていた。
この権現堂と言うのは嘗て鎌倉の亀谷(かめがやつ)に存在し源頼朝に崇敬された修験道の大道場の“亀谷山福禅寺名代を勤めた権現堂”の事。
その福禅寺は鎌倉時代に戦乱を避けて鎌倉から磯子区森の森浅間神社と港南区松本に江戸時代まで存在していた権現堂に機能移転した。
福禅寺の寺院機能は室町時代に扇谷上杉家と三田家により東京都青梅市に福禅寺として再興されている可能性が間宮信冬公~間宮康俊公の戦国時代に開いた鶴見区の寳泉寺や川崎の宗三寺との関わりから推測できる。
安土桃山時代には福禅寺は天皇家勅願所にも成っているが、そもそも鎌倉時代の亀谷山福禅寺権現堂が親王が赴任する門跡寺院だった事から小生のこの説の状況証拠となる。
尚、青梅市の福禅寺は無能な徳川幕府役人が寺領保証の朱印を“海禅寺”と書き間違えて以来、その寺号を已む無く名乗っている。
権現堂の修験道は神仏習合の宗派だった為に明治に成ると明治政府のプロテスタントキリスト教徒政治家達の主導で宗教改革が行われて仏教と同じく弾圧の対象とされ、神仏分離で国家神道が成立。
権現堂家も修験者としての僧籍を官命で捨てさせられ、以後は国家神道に属した。
その祭に御祭神は森の天照大神宮が合祀され主祭神が天皇の皇祖神でもある天照大神にとって変わられ、他にも江戸時代を通じて笹下間宮家の陣屋に在った御霊神社が合祀されたりもした。
この御霊神社は間宮一族の名将間宮康俊公をはじめ間宮一門を奉る神社だったが、恐らく前身は間宮家の氏神である近江国安土沙沙貴神社より戦国時代に間宮家の支配地だった川崎に勧進された沙沙貴神社の更に御分霊だろう。
沙沙貴神社の御祭神は間宮家や黒田如水公や乃木大将や佐々木高綱公等の祖先である敦実親王の御霊である。
尚、宮司家の家門は間宮家から養子が入った分家に当たり間宮家から下賜されたであろう丸に隅立て四つ目紋である。
更に後には間宮笹下陣屋を守る武内家が分家した。
本来は安房洲明神が祀られていた神社。
笹下城主が間宮信元公の時代に接収され安房洲明神は移転、その後再び江戸時代を通じて祀られていた。
当時は天照大神宮は元は久良岐郡森村(磯子区森~中原)の地域に存在していた。
その支配は松本村(港南区港南)修験道の権現堂の管理下に置かれていた。
この権現堂と言うのは嘗て鎌倉の亀谷(かめがやつ)に存在し源頼朝に崇敬された修験道の大道場の“亀谷山福禅寺権現堂”の事。
その福禅寺は鎌倉時代に戦乱を避けて鎌倉から磯子区森の森浅間神社と港南区松本に江戸時代まで存在していた権現堂に機能移転した。
福禅寺の寺院機能は室町時代に扇谷上杉家と三田家により東京都青梅市に福禅寺として再興されている可能性が間宮信冬公~間宮康俊公の戦国時代に開いた鶴見区の寳泉寺や川崎の宗三寺との関わりから推測できる。
安土桃山時代には福禅寺は天皇家勅願所にも成っているが、そもそも鎌倉時代の亀谷山福禅寺権現堂が親王が赴任する門跡寺院だった事から小生のこの説の状況証拠となる。
尚、青梅市の福禅寺は無能な徳川幕府役人が寺領保証の朱印を“海禅寺”と書き間違えて以来、その寺号を已む無く名乗っている。
権現堂の修験道は神仏習合の宗派だった為に明治に成ると明治政府のプロテスタントキリスト教徒政治家達の主導で宗教改革が行われて仏教と同じく弾圧の対象とされ、神仏分離で国家神道が成立。
権現堂家も修験者としての僧籍を官命で捨てさせられ、以後は国家神道に属した。
その祭に御祭神は森の天照大神宮が合祀され主祭神が天皇の皇祖神でもある天照大神にとって変わられ、他にも江戸時代を通じて笹下間宮家の陣屋に在った御霊神社が合祀されたりもした。
この御霊神社は間宮一族の名将間宮康俊公をはじめ間宮一門を奉る神社だったが、恐らく前身は間宮家の氏神である近江国安土沙沙貴神社より戦国時代に間宮家の支配地だった川崎に勧進された沙沙貴神社の更に御分霊だろう。
沙沙貴神社の御祭神は間宮家や黒田如水公や乃木大将や佐々木高綱公等の祖先である敦実親王の御霊である。
尚、宮司家の家門は間宮家から下賜されたであろう丸に隅立て四つ目紋である。
派手さはないけど、良い雰囲気があります :)流石は天照大御神の神社って事ですかね :)
名前 |
天照大神宮 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
045-842-1920 |
住所 |
|
評価 |
3.7 |
近江源氏佐々木氏の発祥神社である沙沙貴神社の御魂も祀られている神社様です♫鎌倉幕府の御家人佐々木定綱公や北条早雲の家臣間宮信盛公が有名なお武家さんです。
また間宮信盛公の居城・笹下城跡の敷地内であり、佐々木城→佐々気城→笹下城に名前が変わっていったとのことです。
祖父系の氏神様が祀られています感謝です!