国の重要文化財!
南光坊天海を祀る廟所で、建物は正保3年(1646)の建立で、重要文化財に指定されているそうです。
延暦寺の所有だそうです。
徳川家康・秀忠・家光の三代将軍に仕えた慈眼大師天海の 廟所です。
ゆっくり見て歩くと境内に徳川家康・紫式部・清少納言・の供養塔もありました。
何も知らずあったので驚きました。
静かで心地良い空間です左には2024年大河ドラマ放送の紫式部や清少納言、和歌で有名な和泉式部の供養塔があります大河ドラマが始まれば混む可能性もあるので今のうちに来た方が良いかもです。
慈眼大師天海大僧正のお廟です。
お堂の裏手にある十三石仏群にも供養塔があります。
坂本で奥の方にあり観光客もあまりゆかない。
慈眼大師とは天海のこと。
叡山再興に貢献したため特に祠堂を設けた。
周囲には歴代座主の墓、叡山ゆかりの名人の供養塔など、見所も。
今紅葉も見頃!
信長の比叡山焼き討ちで、残ったイチョウの巨木は、触れると5年寿命が伸び、女性は綺麗になるそうですよ。
雨の中でしたが、ゆっくりお参りさせて頂きました。
駐車場は共用のところに停めることができました。
静謐な雰囲気で、時間を忘れて過ごせます。
滋賀院門跡に行く道中で通り抜けしました。
慈眼堂は、徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍に仕えた、黒衣の宰相と云われた慈眼大師・南海坊天海大僧正をまった廟所とのことでした。
観光スポットというわけでもないので静かな所でした。
慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。
恵日院の境内にあります。
慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所です。
江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、正保3年(1646年)に建立された。
正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺の建物である。
建物は国の重要文化財に指定されています。
堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)を祀っています。
境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがあります。
無料で石仏を見ることが出来ます。
慈眼大師(天海)の廟所。
裏の墓所には桓武天皇や、徳川家康、新田義貞、清少納言、紫式部、和泉式部など壮々たる方々の供養塔が並んでいます。
慈眼大師(天海大僧正)の廟所。
お堂は滋賀県の指定文化財になっている立派なものだが、高い柵で厳重に囲まれ、近寄ることもできない。
ここで見るべきものは、参道両側の巨大な石燈籠。
美しい杉苔をまとった地面に整然と並んでいる。
次にお堂の向かって左手、山側を見ると、苔むした古い大きな石塔が並んでいるのが見える。
ここは歴代の天台座主(比叡山延暦寺の住職)の墓地。
天台座主といえば、昔は日本の宗教界の頂点に君臨し、皇族が代々つとめてきた高貴な立場のお方だが、今は静かな墓地で、ひっそりと眠りについている。
この墓地には、桓武天皇、紫式部、和泉式部、清少納言など、歴史に名を残した比叡山ゆかりの人々の供養塔もある。
さらに墓地の上段には、これまた古びた石仏が並んでいる。
滋賀県高島郡の鵜川にあったもので、室町時代の作。
全て阿弥陀如来だという。
一体一体違った表情で、素朴で親しみ易い、魅力的な仏様なので、こちらも是非拝観して頂きたい。
滋賀の日吉大社の麓にある、家康など徳川家に仕えた天海大僧正の廟所です。
山門を入ると苔が一面ん広がるきれいな庭園があります。
また慈眼堂に向かう参道には石灯篭が並んでいて落ち着いた雰囲気です。
参拝者は少なくゆっくりと雰囲気を味わえますまたこの廟所のすぐ近くには日光東照宮のひな型になり、天海大僧正が建てた日吉東照宮もあります。
とても良いと思います。
こちらだけを目的に行くことは無くても、滋賀院門跡に伺ってから立ち寄ると、一つ得した気分になるかもしれません。
その後で正面参道から外に出れば、素晴らしい琵琶湖の景色が眼下に広がります。
徳川家光公が天海僧正の廟所として建立。
天海僧正の廟所は日光と川越とここ坂本にある、と訪れて後から知った次第。
実際のところ、存在知らず前を通り過ぎようとしたが門から見える佇まいに惹かれて入ったら、まるで京都五山の塔頭のような洗練されたお寺で驚いた。
奇麗に掃き清められた苔むした境内、規則正しく立ち並ぶ石灯籠、ちょっと四角い感じの石仏。
派手さとは無縁だが日本的な寂(さび)に溢れた場所である。
坂本観光で一番の掘り出し物だった場所。
こういう素晴らしい場所に無料で、何の申し入れもなく訪れることが出来ることに感謝です。
慈眼堂は国指定重要文化財でそれはそれで素晴らしいのですが、周りの雰囲気は、それ以上の価値がありますね。
一言で言います、此処は凄い所です、俺等は高島町の四十八体仏から十三体と持ち去る寺はどんなお寺や!と思い慈眼堂を見聞をしに行きました、見て納得しました(^.^)まずこれを!慈眼大師供養塔(天海僧正)=明智光秀?桓武天皇の御骨塔後陽成天皇供養塔後水尾天皇供養塔徳川家康供養塔清少納言供養塔紫式部供養塔新田義貞供養塔歴代天台座主の墓海僧正は慶長12(1607)年に「比叡山探題執行」となり、朝廷との交渉役になったり、比叡山の復興に当たります。
比叡山はこれよりも30年あまり前に織田信 長の焼き討ちに遭い、壊滅的な被害を受けていますから。
坂本での明智光秀の足跡を見れば判る気がします。
十三体の石仏に関しては、何も書かれて居ませんね。
静かな空間と庭が楽しめます。
徳川家康の宗教政策の顧問を務め、江戸の風水師とも言われた天海僧正の廟。
実際の墓は日光にあるので、ここは供養のため、あるいは比叡山を天海の霊力によって守護するためのもの、だろう。
もちろん徳川家からの保護を強固にするためという政治的な意味もあるだろう。
そして個人的に興味深いのは天海僧正が明智光秀が天王山の戦いの後生き延びて比叡山に登り、天台密教の奥義を取得して天海と名を改め徳川家康の顧問となったという伝説があること。
この説の傍証はいろいろあるが、もし天海が明智光秀の後身であるなら坂本城主も務めてこの街に縁のある彼が比叡山や坂本の復興に尽力したのも当然のような気がする。
滋賀院門跡から慈眼堂に続く道の美しい事!境内も静かで、もみじと苔が美しく、個人的には、紅葉よりも青もみじの時期の方が好きです!「緑に染まる、坂本(その6・7慈眼堂)」でも述べておりますので、そちらもご一読頂くと幸いです。
滋賀県大津市坂本滋賀院裏手の天海大僧正(慈眼大師)廟所天海は徳川幕府歴代三代将軍の政治・宗教・朝廷対策の顧問で江戸の都市計画の基礎から完成まで約50年間手腕を振るい焼討後の比叡山復興に尽力した歴代天台座主の墓所南光坊天海(慈眼大師)供養塔桓武天皇御骨塔の他に後陽成天皇、後水尾天皇、徳川家康、清少納、紫式部、新田義貞の供養塔が安置される1643年 南海坊天海逝去三代将軍・徳川家光の命により滋賀院境内に廟所が設けられる1648年 朝廷より慈眼大師号と大僧正の位を賜り慈眼堂と改称。
徳川家康のブレーンであった天海の廟所である。
堂内には木造慈眼大師坐像(国の重要文化財)を祀る。
境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の阿弥陀如来座像(室町時代後期)がある。
春の新緑、秋の紅葉、萩は美しい。
名前 |
慈眼堂 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト |
https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/312311.html |
評価 |
4.2 |
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国の重要文化財!2023年11月上旬、坂本エリア探訪の際に行きました。
中には入ることはできません。
説明板によると—————————————————————慈眼堂慈眼大師南光坊天海大僧正の廟である。
徳川家康・秀忠・家光三代将軍に幕府の顧問として遇され元の兵火で全山焼土と化した比叡山の復興に尽力した。
寛永二十年家光の命により建立された。
慶安元年大師号の下をうける。
—————————————————————とあり建立された寛永20年は1643年江戸時代初期の建物で見応えありました。