江戸時代における仙台城下町の中心部です。
現在松尾芭蕉の本を、読んでいます。
仙台市は、夜駅前をちょっとだけ、うろついたことがあるだけです。
松尾芭蕉が生きた時代より、80年も前に伊達政宗が、召し抱えていた隠密の、虚無僧芭蕉を住まわせていた住居が、あった辻の由です。
俳人芭蕉とは、全く関係がない偶然にも同じ名前(俳人も隠密も共に本名ではないと思われます)の人物が、仙台にいた由です。
俳人芭蕉がおくの細道の行程で、この辻の近くの大崎庄左衛門方に宿泊したので、この辻を知り驚いたであろうと想像されます。
国分町にあります。
今は歓楽街のイメージが強いですが、かつては奥州街道の要所。
江戸と津軽のほぼ中間。
仙台の歴史的中心。
東西はお城に続く道。
南北は国を分ける国分町通りが青葉神社まで続く。
さらに江戸まで続く街道になる。
芭蕉の辻には、日銀仙台支店などがある。
ここを原点としては、北四番丁通り、東二番町通りと東西、南北の通りに番号がついている。
春分、秋分の日の夕方に東西の通りに日が通る。
遥かな歴史を感じました。
ここが奥州街道の中心地。
月日は百代の過客にして行き交う時もまた、旅人なり(芭蕉)。
浅田次郎『流人道中記』でたびたび登場の地。
本書によれば、かの松尾芭蕉とは縁もゆかりもない、とか。
「江戸日本橋迄69次93里、津軽三厩(みんまや)迄45次107里」2021.9
松尾芭蕉ゆかりの場所かと勘違いしていた。
奥の細道 第17の段 「宮城野」「芭蕉の辻」とありますが、実は奥の細道とは関係ありません。
詳細は添付写真を参照下さい。
とは言いつつも折角なので「奥の細道」杜の都仙臺(仙台)の解説をします。
先の段で登場しました名取川を渡って芭蕉一行は仙台に入ります。
曾良旅日記によりますと、橋本善衛門、山口与次衛門、泉屋彦兵、泉屋勘兵衛、大淀三千風、そして本文に登場する”委(くわ)しく知る画工”北野加衛門と(怪しい?)人名が並びます。
さすがは伊達62万石の城下町。
昔も今も大都市で、知る人も沢山いらしたのでしょう。
ということにしておきましょう。
仙台ではこの北野加衛門(大淀三千風の弟子)の案内を受けます。
こちらで詠んだ句は「あやめ草 足に結ばん 草鞋(わらじ)の緒」です。
これまた、単独で訳す事が難しい句です。
白河の関からの内容を踏まえる必要があるようです。
芭蕉が仙台に入ったのは旧暦の端午の節句の前日(5月4日<菖蒲ふく日也>)です。
端午の節句は、菖蒲(しょうぶ)の草の部分を、風呂や、軒に吊して邪気を払う風習があります。
厄介なことに”あやめ”を漢字で書きますと”菖蒲”です。
また”あやめ”と似た花で花菖蒲やかきつばた(杜若)があり、「いずれあやめかかきつばた」ではないですが、まさにどれがどれだか分からない状態です。
さらに奥の細道、第13の段「安積山」では第15の段藤原実方の言葉に肖(あやか)って、”かつみ”(菖蒲の代わり)と称しています。
もっとややこしくするのは能因法師「菰の花さきたるをみて はなかつみおひたるみればみちのくのあさかの沼のここちこそすれ」です。
句の「あやめ草」は”しょうぶ”、”はなしょうぶ”、”あやめ”、”かきつばた”、”かつみ”、”こも(管菰)”あるいは他のものを指しているのか判断しづらいです。
(枕草子 第63の段”草は”の”菖蒲”ならば何を指しているか分かるのですが、これが俳句の”趣”ってやつですかね?)先の「いずれ菖蒲か杜若」の語源は、源頼政が鵺(ぬえ)退治の褒美として帝より菖蒲御前を賜る際、宮中の美女12人の中から世に聞こえた美女菖蒲御前を選び出してみよと言われて「五月雨(さみだれ)に沢べの真菰水たへて いづれあやめと引きぞわづらふ」と詠んだということと聞きます。
(おくの細道の地”東光寺”で補完します)重要語句の”五月雨”が入っていますね。
また、”杜若”でなく、”真菰”ですね。
頼政の歌と奥の細道本文の”十符の管菰”から”菰(こも)”を指し、菰から能因法師の歌にある”かつみ”を指していて、それを表現の異なる「あやめ(平仮名)」としたのではないかと考えます。
すなわちこれも歌人藤原実方への敬意であると結論づけました。
(ご覧の皆様にうまく伝わっているか自信がありませんが、全て端折って云うと「大事なものは目には見えない」や「言語道断」ってことです)ご覧の皆様は”あやめ草”が何を指していると思われますか?手前は、文学の事はよく解らなくて恐縮ですが、鏡(歴史)を見るかぎりでは、大嫌いな西行と違い、自分の気持ちに正直な実方は好感を持っています。
自分の研究に没頭した科学者の”しでかし”のようで・・・。
実は、大都市故に北野さんから女性がらみの夜の接待を受けてそのお礼か感動で書いたのかもしれませんけれど・・・。
そうそう、芭蕉が宿を取ったのは、昔も今も歓楽街「国分町」です。
今日は家内と一緒なのでアナゴさんとマスオさん向けの口コミはありません。
一応句の訳も書いておきますね。
句の手前訳:本日は端午の節句なので、端午の節句に肖って魔除けの菖蒲をわらじの鼻緒につけましょう。
よそ行きの訳ですね。
本心は…草鞋は伊達家に献上とあります。
草鞋は移動の暗示、菖蒲(しょうぶ→勝負)でなく、観賞用の菖蒲(あやめ)を足に結ぶのは、(伊達家は)動く(出陣する)気は無い。
ということを示唆していると読みました。
ところで、手前はおニャン子世代ですけれど、映像に登場する乃木坂の肩書きを持つ方(お名前を存じ上げている方は殆どいませんが)は、まさに「いずれ菖蒲か杜若」ですね、乃木坂は乃木神社ができる前は幽霊坂と呼ばれていたようですが、あたかも、亀霊に導かれて、竜宮城に訪れたかのようです。
竜宮城の客室にあるという四季を写す窓、まだ春と冬を見たことが無いので見てみたいものです。
あれ?何の話ししていましたっけ?!松嶋の投稿の前に西行嫌いと乃木坂の布石が打てたので、意味のある投稿になりましたが…。
ここに来てみて、「芭蕉の辻」とは芭蕉という樹があった十字路ということを知りました。
すっかり山寺か松島に行く途中に寄った場所かなと勘違いしてしまいました。
とても小さな石碑がポツンと置いてあるだけで、観光地としては訪問の価値は低目。
この辺りが、仙台の中心地だったんですねー!って感じ。
江戸時代における仙台城下町の中心部です。
お城に向かう道と欧州街道の交差点になります。
VRで、城下町の様子を見る事が出来ます!#ウンポポ。
仙台城の城下町は、大手門からの大手筋(大町の街路)とこれに直交する奥州街道(国分町の街路)を基準に町割がなされ、大町・国分町の両町は城下の経済の中心地、いわゆる目抜き通りとなった。
その場所は制札が掲げられたため当時は「札の辻」が正式名称であった。
辻の建物は、仙台藩がその威光を街道を行く人々に見せるために、四つ角全てが城郭風の高楼を備えた同じ形状の建物となっていたようである。
芭蕉の辻の由来は芭蕉という名の虚無僧が住んでいた、芭蕉の樹が植えてあったなどがある。
津軽と江戸を結ぶ縦の街道と、仙台城下を横に貫く幹道の交差点。
仙台の主要な神社を結ぶと六芒星になり、その中央に位置するらしいです。
ここからまちづくりが始まっていきました。
政宗公はそのあたりも意識しながら国をつくっていった人。
素晴らしいと感動します。
現在は銀行に挟まれていますが、江戸時代は札の辻で、町の基点だったそうです。
また松尾芭蕉とは無関係とのこと。
津軽と江戸を結ぶ縦の街道と、仙台城下を横に貫く幹道の交差点。
仙台の主要な神社を結ぶと六芒星になり、その中央に位置するらしいです。
ここからまちづくりが始まっていきました。
政宗公はそのあたりも意識しながら国をつくっていった人。
素晴らしいと感動します。
青葉城から下りてくる道の十字路、昔はここが一丁目一番地のような場所だったらしく、昔の絵図をみると人々で賑わう風景を見ることができる。
今、この石碑は日本銀行仙台支店を見つめるように設置されています、、、頼みますよ。
青葉城から下りてくる道の十字路、昔はここが一丁目一番地のような場所だったらしく、昔の絵図をみると人々で賑わう風景を見ることができる。
今、この石碑は日本銀行仙台支店を見つめるように設置されています、、、頼みますよ。
ここに、お江戸からの道標あり、そして、その昔は高札が立てられる場所だったそうです。
名前 |
芭蕉の辻 |
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ジャンル |
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電話番号 |
022-214-8259 |
住所 |
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評価 |
3.5 |
かつて城下町仙台の中心、仙台城大手から東へ来る大町、南北に通る奥州街道の交差点です。
今は石碑が立つのみでかつての趣はありませんが、四つ角に建っていた建物の屋根の飾り?の龍のミニチュアが乗ってます。