駅側の住宅街からもお参りできます。
石の鳥居がある。
鳥居をくぐると急な登り坂の参道となっており登りきると猫の額ほどの平らな場所がある。
どんつきにこじんまりした神殿があり、参道の右に2つの石塔が寄り添うようにある。
一つは 境内にあった古松で鳥居を作った時の記念碑。
昭和32年。
(当社境内ノ大松ニ払下デ鳥居ヲ建ル)一つは 文政8年(1825年)9月の石塔。
(表に諏訪大明神 左面 年号 右に願主 沢田文蔵 が書かれている。
)この神社は石楯尾官社に列しているという。
しかし風土記編纂時でも石楯尾官社の詳しいことは今と同じでわからないようである。
文中に 慶長19年(1614年)勧請と云う。
という文がある。
時代は大阪冬の陣である。
風土記編纂していた当時人は確かに今の様子とは違う光景を目にしていたのだろう。
境内に多くの小さな神社、そして四つの祠にかこまれていた神殿。
にぎやかだ。
古松の記述もあり、これが昭和32年に鳥居に使われたものであろうかと考えてしまう。
(現在の鳥居はコンクリート)長い年月ここにありつづけ、繁栄もありまた衰退があり。
真夏の8月に訪れたが、草刈もされており不自由がないように手入れされている。
歴史なんてわからなくても地域にありつづけている神社だ。
※風土記は伝聞の逸話なども入っていますので話の時代が違う可能性があります。
又間違いもあります。
書籍に残された一つの情報と理解してください。
新編相模風土記より(1841年)諏訪社式内石楯尾神社なりと云う。
神名帳に高座郡小五座の内石楯尾神社あり。
天安元年5月石楯尾官社にれしこと国史に見ゆ。
【文徳實緑】郡中 下鶴間村(大和市下鶴間 諏訪神社) 大島村(相模原市緑区大島 諏訪神社) 諏訪社をも式内石楯尾神社と傅ふ(つたわる)。
津久井郡佐野川村(相模原市緑区佐野川)、名倉村(相模原市緑区名倉)にも石楯尾神社あり。
皆當國郡中小五社の一なりと稱(となえる)す。
津久井郡は古當郡に孕まりし地なれば、今何れが舊(ふる:もとのという意味)社なるか證(あかし)を得ず。
佐野川村神社(相模原市緑区佐野川・石楯尾官社)に神體石楯と云う物存し、縁起あり。
併せ見るべし。
村持 下同。
末社 稲荷。
第六天社 若宮八幡宮 神明宮 稲荷社 山王社 古松一株神木なり。
圍(かこ)り1丈。
金毘羅社 秋葉社 西宮太神宮 慶長19年勧請と云う。
山神、養蚕神、瘡守稲荷、田神の四祠を社の左右に並べ祀る。
神事舞太夫源之丞持。
江戸浅草田原町田村澤之助配下。
子安護正明神社 座間宿村圓教寺持。
凄い急階段の上にありますが、駅側の住宅街からもお参りできます。
急な階段の上にあるお社です。
結構歴史があるみたいです、、、階段あがらなくても裏から行けます( ´△`)
侘しさ漂う小さなお社ですが、実は『延喜式神名帳』相模国高座郡 石楯尾神社に比定する向きもある延喜式内論社であります。
現在は崖に向かった建っていますが元は裏の鎌倉古道に向かって建っていたそうです。
現在はこの近くに鎮座する鈴鹿明神社の兼務社となっています。
この地は鈴鹿明神社の古社地であるともいわれていますが、海老名市に鎮座する有鹿神社の中宮が在ったという説もあります。
有鹿神社と鈴鹿明神社との間にはその昔争いがあり、その時この諏訪明神と弁財天(鈴鹿明神社の脇に祀られています)が鈴鹿明神に加勢して戦い、有鹿神を追い払うことが出来た、という言い伝えがあります。
鈴鹿明神社(こちらはすんごい立派に整備されていました)さん、諏訪明神も大事になさってくださいませ。
お社は閉まっていてお賽銭などは入れられないようですね。
行く時は正面の石段はボロボロなんで手すりはあるものの危ないです。
坂の上の裏から周るほうがオススメですね。
式内社の石楯尾神社の論社とされる神社です。
鈴鹿明神社に伝わる、鈴鹿神を助けた諏訪明神だとも。
古くから祀られていることになります。
見晴らしの良い崖の上にあります。
実は歴史ある鎮守さまです。
鎌倉古道沿いにあります。
ここは石段から丹沢の山々が見渡せ、風が気持ち良いです。
近くには児童公園諏訪の上遊園地があります。
座間の良いトコ発信。
名前 |
諏訪明神 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
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式内社と論じられる古社だが社殿は急ごしらえで寂しい。