名前 |
六浦陣屋跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.9 |
間宮家や柳澤家の退転の後、江戸幕府で横浜市域唯一の大名として幕末まで存続した六浦藩主米倉家の陣屋跡。
史跡としては階段のみ現存。
写真は六浦陣屋跡の米倉サンの御宅です。
私は直接御面会の機会を頂き撮影許可を頂きましたが、皆様無断撮影されませんように御配慮願います。
門前の階段は江戸当時からの物だそうですが、石材の磨滅具合から正しいと判断出来ます。
御話に由ると現在の玄関は江戸時代の勝手口つまり北側門跡で、当時の正門は縮小された消滅した陣屋の南側住宅地の中に存在したそうです。
現在の米倉家の周辺住宅を四角に取囲む生活道路が六浦陣屋の跡のようで、往時は堀が廻らされていた事を想像させる道です。
近くの笠森稲荷様は氏神、六浦陣屋鎮守の神様として陣屋内に奉られていた御稲荷様。
近代に入り武家が解体された際に米倉家の先代御当主様が地域の人々も参拝出来る様に現在地に遷宮されたそうです。
現在の笠森稲荷様の背後の権現山~御伊勢山は室町時代の照手姫と小栗判官伝説の盗賊が跋扈した要塞跡であり、更にそれ以前の歴史も山反対側の日蓮宗六浦上行寺の歴史から辿ると金沢北条家臣だった荒井家の荒尾城として鎌倉時代まで機能していた事が解る。
つまり米倉家御当地を陣屋に定めたのは、有事に鎌倉防衛網を担い且つ金沢湾の海防も可能な詰城となる荒尾古城の権現山、御伊勢山の地形を頼りにして選定した事が解る。
荒尾城主だった荒井家は鎌倉幕府滅亡で一度士分を捨て水軍を活かして海運で大商人と成った後に、室町時代戦国時代に成ると小田原北条家玉縄衆大将北条綱成公の付家老として活躍した間宮信元公・康俊公父子に家老として仕え、安土桃山時代の杉田間宮家分家後は杉田間宮家臣として杉田間宮陣屋を守る家と江戸に在番する間宮家に近習する家とに別れた。
笠森稲荷様を地域の為に現在地に移された米倉家の殿様の御子孫は現在でも六浦陣屋跡に居住してらっしゃいます。
付近には北条水軍の一角を担った柳下や一之瀬姓の家が今も多く残ってらっしゃいます。